こりくつ手帖

なにかというとすぐに例え話をはじめる20th century girl

『未来のイノベーターはどう育つのか』を読んだ

教育に関するこんな本を読んだ。


本書でいうイノベーターとは、問題解決のためにこれまでなかった新しい価値を生み出せる人のことだ。

著者がアメリカの若いイノベーター達に子供時代の過ごし方から大学などの高等教育機関で得た経験などについてインタビューを行い、彼らのイノベーター精神を育んだのはどんな事柄か、これから子供達を育てるのに親や教育者は何を重んじたらよいか、ということが主に本書には書かれている。


参考に内容紹介を抜粋する。
好奇心とチャレンジ精神に満ち、自分の頭で考え、枠にとらわれず新しいものを創り出す――。あらゆる分野でますます求められるイノベーション能力の謎に迫る、親とビジネスパーソンのための教育書。 
イノベーターの資質とは何か。なぜそれが今後ますます重要になるのか。それはどのように芽生え、どうすれば育てられるのか。
エンジニア、起業家、デザイナー、社会起業家、彼らの両親、グーグルやアップルなど独創的な企業の人材開発担当者、 MITやスタンフォードの教育者……大勢の人に取材を重ね、家庭環境から大学教育、企業文化まで俯瞰して見えてきた 「イノベーション能力」の源泉とは? 

こう見ると起業家を育てるための本のようだが、別に起業家にならなくてもイノベーター精神はあったほうが面白く生きられると思うので多くの人にとって無関係ではないと思う。
あらゆる人は事業とか仕事とか以前に自分の生き方を自分でコーディネートする必要があり「好奇心とチャレンジ精神に満ち、自分の頭で考え、枠にとらわれず新しいものを創り出す」力はそれに欠かせないからだ。
そんなことを考えて、幼児の子供を持つ親として、またこれから続く人生をデザインしなければならないミソジスト(三十路の女)としてこの本を読んだ。

学校の外の世界をどう作るか

本書ではアメリカの学校教育の問題点がしばしば指摘されているのだが、それが日本で言われている問題と案外似たようなものだなと感じた。
詰め込み教育、知識偏重で応用力が伸ばせない、生徒の興味関心に応じてカリキュラムを組めるような学校はほとんどない、など。
海外で教育を受けたことがない私はアメリカの学校風景というと「トム、君はこの問題についてどう考えているんだい?」みたいなアメリカンな会話が交わされていて生徒の意見や自主性を尊重する風土があるのかと勝手にイメージしていたが、偏見だったようだ。

多くのイノベーター達も、自分に大きな影響を与えたものは学校の中にはなかった、あるいは学校の中でも例外的な教えをしている教師に偶然出会えたことが最も自分に影響している、と語っている。
イノベーション能力を育てるのに成果を上げている大学の取り組みも紹介されているが、まだ一般的なものではないようだ。
学校の授業ではなく、その枠外での取り組みや気づきに熱中することが彼らのイノベーター精神を養ったことを実例をもって示し、親や教師は枠にはめ込もうとするあまりその意欲を失わせないことが重要だと述べられている。

この部分について、学校の仕組みをもっと変えていく必要があるという結論に達しやすい(本書にはそのための提案や課題も書かれている)が、もう一つの問題は学校の外で過ごす時間と場所をどう与えるか、ではないだろうか。

そもそも子供の意欲や発想の方向は本来とても多様なので、それを万全にサポートできる学校をつくるのは非常に難しい。枠を飛び越える子は必ずいる。
仮に万全な学校を作れたとしてもやはり学校の外の世界の充実が必要なのは変わらない。
学校だけを子供の居場所にしてしまうと、生徒間のヒエラルキーの固定化(いわゆるスクールカースト)が強固になったり、いじめやトラブルに遭った子供の居場所がなくなるという問題もあるからだ。

学校では基本的な学びができて、自分のやりたいことを見つけたり熱中したりできるどこか別の場所があり、そこには学校と異なる人間関係もある、というのが良い状態なのかなと思う。
この別の場所として現実的には習い事が選ばれることが多いと思うのだけど、習い事のネックはまず費用がかかり家庭の経済状況によってはそこへ行けない子供がいることだ。
そして多くの習い事で時間を埋めてしまうのは学校の詰め込み教育に多くの時間を割くのとあまり変わらないし、何かを追求したいとかソリューションを探りたいみたいな欲求に応えるという性質はあまりない。
高額な費用がかからず、時間に追われず、学校以外の世界に触れられて…というような街をぶらついていたら出会ったじいさんとトークをキメて思わぬ友情が芽生え人生を教わる、みたいなニューシネマパラダイスな場所を用意するのは難しい。
そういう場所づくり自体に今イノベーターが求められていそうである。
親の立場で現実的に考えるととりあえず場所や物事に自分で出会いに行ける時間を作ってやるのが先決の課題かなと思う。

信じるって難しい

とはいえ時間を作ってやっても子供はダラダラとスマホ見てたりゲームしたりマンガ読んだりしてて、何かに出会うみたいな理想的な効果はめったに目に見えてこないのかも知れない。
余裕を作って子供に自由を与えるという方法は効果がたちどころに見えるものではないので、見ている方は余裕どころか焦りを感じる。(ゆとり教育が否定されたのもこれが大きそう。)
何かさせておかないとまずいから塾でも入れよう、となるのがリアルな感覚だと思う。

本書には
子育てで究極的に必要なのは信じることだ。まず親としての自分の直感、判断、価値観を信じること。また子供を信じること。子供にはユニークな感性と才能があり、学びたい、作りたいといった欲求があり、自分の潜在性を実現したいという内的なエネルギーがあることを信じるべきだ。
とある。
言われればその通りなのだが、そういうシンプルでもっともなことが一番難しい。
イノベーターの親達も、どこまで子供の好きにさせるか、学校の課題との兼ね合い、自由とルールを守ることとのバランスなどいろいろなことに悩んできているようだ。
それに人は何かを頑張ろうとするとつい何かをやってしまいたくなる。
子供のことを考えると、信じてじっと見守るより善意で余計なことをする方が簡単なのだと思う。

そこでもう一つ大切なこととして挙げられているのが「自分の親としての権威を見直すこと」、つまり親がいちばん物事を知っていると思わないことである。
何かをしてやりたくなるのは相手より自分の方が道理がわかっているという前提に基づいているからで、その思い込みをまずやめることで子供自身の意志に委ねることができるとのこと。
確かに。
老いては子に従えって言うし。生んだ時点で子より老いてるし。
子供の立場として自分の親を見てみても、世代の違いで理解されない部分はあるし、何より別の人間なので同じ解法がそのまま使えるわけではないと実感する。

子供のことは子供自身がよくわかっていると認めながら、自分の直感、判断、価値観を信じる…ってやはりなかなか難しそうなので経験しながらバランスをとっていくしかない。

社会とつながるという言葉の本当の意味

本書に登場する多くのイノベーター達のモチベーションの元になっているのは身近な社会の問題点との遭遇である。
例えば貧困地区に暮らす子供達は学校生活に意欲を持てる状態になく、結果成長しても貧困から抜け出せないことにショックを受けたイノベーターは、彼らが熱中できるアート活動を立ち上げるのに尽力した。

イノベーターを育てるには解決すべき課題に出会わせる必要があるのだ。
それには社会を見ることが必要で、具体的にはニュースに関心を持たせるとか、いろいろな人と関わらせるとか、子供の世界を広げることを意識している人もいるだろう。
だが必要なのはそれだけだろうか。

毎日ニュースをチェックして、仕事で多くの人を相手にしている大人は大勢いるが、そこに解決すべき課題を見出せている人ばかりではない。
どちらかというと悲惨な事件や社会問題はなるべく自分とは遠いところにあったほうが嬉しい、という空気を感じる。
事件に巻き込まれた被害者、事件を起こした加害者を見て「こういう事件に関わるのはやっぱり◯◯だからだ。◯◯はダメなやつらだ」と言うのはもはや定型文だ。◯◯に職業、学歴、世代、人種、家庭環境などあらゆる要素を入れて自分との差別化ができる便利なシステムである。
貧困、労働環境、結婚や出産や育児など、うまくいかない事情を抱えた人がいても、「本人の努力不足」「計画性がない」と自己責任論を投げつけられがちで、社会構造に問題があるという指摘もそれは甘えだと切り捨てられる。
問題を抱える人を見てもそれを全て本人の責任と考えれば、自分を含む他者が解決すべきことはない、何もしなくていいという理由ができる。
いくら情報を眺めていても自分の内側の何かが変わることはない。
自分と社会はそこで分断される。

自己責任論は一見「不徳は全て私の致すところ」みたいなストイックな感じがあるし、実際自己責任を主張することで自分はしっかり自己を律して生きているのだという空気を演出するような人もいる。
けれど問題の本質から目を背けて思考停止する危険もあって、そうなるとむしろ自分を甘やかすための理論武装でしかない。
子供の教育に用いる場合もそうで、「自分のために努力しろ、努力しないと将来良くない結果につながる、それは自分の責任だ」と子供を律するために言ったことが「満足な結果を得ていない人間は努力が足りないからそうなった」という発想を子供に植え付ける場合がある。
努力も責任感も大切だが、それを自己責任論と結び付けて説くことには子供と社会を分断する恐れがある。

社会とつながる、という言い方があるが、それは会社に所属したり大きな仕事をしたりすることだけを指すのではなくて、自分の目に映ることと自分を遮断しないことを指していてほしい。
必ずしも特別なものを見る必要はない。
自分で見て考えたことは特別になるからだ。

自分を主語にする

本書の全体を通して、子供を伸ばすのは子供自身の感情や意欲であり、親や教育者が考えるのはそれを追究させるサポートについてであることが読み取れる。
主導ではなくてサポートだ。
それでも親も人格ある個人だから「あれをしたらいいのでは」「こうしたらためになるのでは」と自分の考えが生まれてくる。
そして気付いたら主導や誘導、押し付けをしてしまっていた…となりそうだ。
子供にとって押し付けがましくないサポーターになるには、「あなたはこれをしたほうがいいよ」と言うだけではなくて「私はこれをしたほうがいいといいと思って実行している」と言えることを作り、そちらにエネルギーを分散させることがひとつの方法かなと思う。
あるいは「私はこれがいいと思うんだけどあなたはどうか」という姿勢で提案をすること。
いきなり「あなたはこう思うよね」と言うのは言われた人間への圧力になる。
自分を主語にすることは大切だ。
親も自分の人生を生きるっていうのはそういうことなんだと思う。

おわりに

本書は教育に必要な取り組みや姿勢についても書かれているが、タイトルが『どう育てるのか』ではなく『どう育つのか』であるように、ボリュームとしてはイノベーター達の育ってきた環境がどんなものだったかという描写に多くを割いているため、ドキュメンタリーとして読むのがしっくりくる。
パワフルなイノベーター達の姿が「私も自分を信じよう」と思わせてくれる。

本の内容から想起したことをさも有効な子育ての手法であるかのように語ってしまったが、一人の親業初心者が頭で考えたことに過ぎないので笑ってご容赦いただきたい。
何かの参考にするのであれば、それはもう、自己責任で。

シュークリームの記憶

連休中に旧友たちと連れ立って友人宅を訪れた。
友人の一人が手土産に持ってきた箱入りのシュークリームをみんなで食べていると、ふとある記憶が蘇った。

それは以前勤めていた会社での出来事である。
そこでは年に数回、部署ごとに労働組合の担当者と部員とが集まり職場環境について意見交換を行うという会議があった。
その年度の給与や休暇への要求と回答を確認した後、人員が足りないとか有給が取れないとかそういう感じのことを言い合う場である。
ある時、それを女性社員だけで行おうという試みがあり、私も参加した。
この会社は社員の女性比率が低いので、普段の会議では発言しづらい意見もあるだろうとの配慮から企画された会議だと事前に聞いた。

当日、女性社員達が会議室に集まり、部屋の中心にある長机を囲むようにして席についた。
すると労組の男性担当者は資料とともに箱に入ったシュークリームを長机の上に置き、にこやかにこう言った。
「今日は女性だけの会ということで、シュークリームでも食べながらリラックスしてお話していただければと思います」

シュークリーム?

少しの違和感が芽生えたが、私の口をついて出たのは「お気遣いありがとうございます」という言葉だった。
他の女性達も同様にお礼を言ったものの、率先してシュークリームを手に取る無邪気な者はいなかった。
資料を全員に回したところで年長の女性が「じゃあお菓子も分けましょうか」と言ってくれたので、箱を回してシュークリームをひとつずつ取っていった。
この時声を掛け合いながら回していったことで多少は空気が和らいだかも知れず、担当者の気遣いは全くの見当違いではなかったと思う。

しかし私はシュークリームの存在に若干の苛立ちを覚えていた。

まず、会議は昼休みを利用して開かれているので時間が限られている。
せっかくの機会なのでお菓子をわけわけする時間も惜しかったというのが苛立った理由のひとつだ。
しかしそれよりも引っかかったのは、女性の集まりだからお菓子が配られた、ということだった。
みんなでお菓子を食べてリラックスすれば討議が活発になる、という発想もなくはないが、それなら普段から男性達もシュークリームをむさぼりながら話し合えば良かろう。
なんというか、「女の人には甘いものを渡しておけばいいよね」という少し雑な感じが透けて見えたのである。
そしてそれが会議というオフィシャルな場に持ち込まれたことに抵抗感があったのだ。
これでは「女は仕事の話をするにも甘いもの食べながらでまるで緊張感がない」と仮に揶揄されたとして、まったく反論できないではないか。

我ながらとてもめんどくさいことを言っているなと思う。
こんなことを言うと、女ってのはいちいち文句をつけるから厄介だ、と反発を招くことも分かっているし、担当者の行動は女性社員を軽く見るつもりはなく単なる気遣いの結果であることも分かっている。
このエピソードで問題にしたいのは「悪気なくシュークリームを配った担当者」ではなく、「違和感を持ちながら 結局シュークリームを食べた私」のメンタリティーだ。

そう、黙って苛立つくらいならば「今この場にシュークリームは不要と考えるので私はいただきません」とでも言えばいいのである。
しかし私がシュークリームを拒絶するにはいくつかの関門がある。
まず、私は不要だと思っていても他の女性社員の中にはシュークリームを喜んでいる人がいるかも知れず、そこに水を差すのは無粋である。
そして、人が良かれと思ってしてくれたことを無下にするのは良心が痛み、こんなささいなことにいちいち異論を唱えるのは大人気ない行為に映るだろう。
さらに、私はシュークリームがとても好きなのだ。
断るのはもはや至難の技である。

男性同士が接待でキャバクラなど女性がサービスする場所を利用することがある。
それについて、彼女や妻の立場でそれを許せるかとか、サービスを受けることで女性を消費しているとかいったことはよく議論になるが、これらの問題を抜きにしても、どんなTPOにおいても男性はとりあえず女性をあてがえば喜ぶだろう、という思考が男性を馬鹿にしているような気がして私は肯定的になれなかった。
何故多くの男性が「男ってみんなこんなもんでしょ」と男性をなめたような文化に乗っかるのだろうと思っていたが、なんらかの違和感を覚えたとしてもそれを表明せずに場の空気に従う場合が往々にしてあるのだろうと感じた。
それはシュークリームを断れない気持ちと少し似ているのではないかと気づいたからだ。
(違いがあるとすれば、私がシュークリームを食べることで傷ついたり不快な気分になる人はおそらくいないということだ。)

この『◯◯に属する者には△△を与えておけばいい』という類の発想はいろんなところに潜んでいる。
そして◯◯の示す範囲が広いほど自分が拒否することが和を乱すのではないかと気が引け、△△に入るものがなまじ魅力的であるほど敢えて違和感を表明する気概が薄れ、結果として問題意識の共有に時間がかかってしまう傾向がある。
実際に違和感を表明したら「そんなことにいちいち文句をつける人間はめんどくさい」と案の定カウンターを食らったという例も枚挙に暇がない。(最近では「女性向け商品はとりあえずピンクにしとけばいいだろう」といういわゆるダサピンク問題の指摘とそれへの反発があった。)

そんなわけでこの手の問題意識は取り扱いが難しいのだが、静かに違和感を積層させている人間は少なくない。
そのため、大きなブレイクの可能性を孕んでもいるのだ。
アナと雪の女王』のヒットはその一例ではないだろうか。
この作品は「女児向けアニメはとりあえずお姫様が王子様とくっついて終わるものだろう」というお約束から逸脱した点に魅力があるということは方々で指摘されている。

△△の押し付けは不快だ、という指摘を、□□という方向もあるよ、という提示に置き換えることで問題意識はより幅広い層に抵抗感なく伝わる。
その□□を生み出すにも障壁はあるのだが、意見を言えずに悶々とすることに労力を割くくらいならブレイクを目指すメンタリティーを持ちたい。
シュークリームより、キャバクラより受けるもてなしとは果たして何なのか。

こうして些細な違和感を言語化することにより、シュークリームと何度も書いた私は無性にシュークリームを食べたくなり、シュークリームの力の強大さが明らかになった。
これを読んだ人がシュークリームを食べたくなったとしても、悪いのは私ではなくシュークリームである。

ららぽーと富士見に行ったついでにこれからのショッピングモールの話をしよう

ららぽーと富士見に行ってきた

夫が有給を取ったので平日昼間のららぽーとに乳児の息子と3人で行ってみた。
ららぽーと富士見とは、埼玉県富士見市(川越の隣)にこの4月オープンしたショッピングモールである。
埼玉初出店のテナントが多く、子連れフレンドリーな構成になっているとの噂を聞いていたので、実はオープン前からわりと期待していた。

 
都内から埼玉県に引越し、大型ショッピングモールに行くようになった。
世間でイオニストがどうのこうのと言われているが、郊外で暮らしてみたら大型モールはやはりそれなりに便利である。
テナントのラインナップから土地柄やターゲットが浮かび上がってくるのも楽しい。
デパートや駅ビルとは空間の作りからしてまるで違うのも新鮮だ。
 
今回訪れたららぽーと富士見はテナントのセレクトや体験型施設の提案などに工夫があり充実していた。
だからこそ「もっとこうなればいいのに」という想像力も働き、今後のショッピングモールの在り方について考えさせられた。
いくつかのトピックに分けて感想などまとめておく。
 

立地条件・価格帯・新規性、埼玉の要求は高い…

まずは回ってみた所感を列挙。
 
  • 大きな特徴は外資ファストファッションの充実。埼玉南部の大宮、浦和、川越といった商業地にGAP、ZARAくらいしか置かれていなかったのが常々不思議だったが、こことさいたま新都心コクーン2のオープンでオールメンバーがほぼ揃う形となった。OLD NAVY,Bershka,Stradivariusなど低価格かつ都内にも展開が少なく目新しいセカンドラインが多いところが上手い。
  • 国内ブランドも買いやすい価格且つ知名度のあるブランド名が入ったセカンドライン(SC用ライン?)が多い。埼玉南部は東京へのアクセスが良いため、気合いの入った高い買い物をしたい時は東京に流れる。東京に行く気力がない場合も大宮あたりに流れる。よって、衝動買いやついで買いを狙える価格、遠方まで服を買いに行くほどのモチベーションはない状態の人が気軽に手に取れる価格が求められる。同時に、都内でもメジャーなブランド名が醸すトレンド感も必要。
  • その一方で価格が少し高めのブランドもおさえている。ファッションではDIESEL、インテリアではACTUSなど。ちょっと良いものが見たい人も当然いるので嬉しいと思う。
  • 個人的にはZARA HOMEが入ってるのが新鮮でよかった。
  • 服飾と並べて生活雑貨をトータルで提案するいわゆるライフスタイルショップ系の店舗が多い。本施設に限ったことではなくこうした業態はトレンドだが、シンプル・リラックス・スローライフ的な雰囲気に概ね集約されているように思える。もう少し変わったテイストに振り切ったものも見てみたい。アパレル主導型なら、例えばゴスロリ系ライフスタイルショップとかも需要あるのでは。来年開業予定のイオンモール高崎駅前あたりでやれば北関東の聖地になれそうだ。
  • レゴショップに心躍る。
  • フードコート、飲食店のセレクトがいい。鉄道カフェ、ブックカフェも面白そうだ。BBQ広場があるのも空間を広く使えるモールならでは。

本施設最寄りの駅は東武東上線ふじみ野だが、ここは元々池袋まで一本で行ける上に、副都心線への乗り入れによって日本有数のショッピングタウンである新宿三丁目とも結ばれてしまった。
この位置にモールを作るとなると、リトルトーキョー過ぎても存在意義が薄れるし、かといってトレンド感がないと見放されるしと難しそうなのだが、そこはららぽーと、押さえている。
『都会にあるものもないものも、ここにはありました。』というキャッチコピーにもそのあたり配慮した感じが出ている。
面白く過ごせたし、そもそも広くて一度では回りきれないので、まずリピートは確定だ。
 
以降は、本施設への注文というより、ショッピングモール全般に期待することも含めて書いてみたい。
 

高齢化するショッピングモール

訪れたのが平日だったこともあり、客層は子連れママと高齢者が目立った。
三世代連れ立っているグループもいたが、高齢者のみの夫婦または女性グループも多かった。
屋根があって道が広く、各所に椅子があるショッピングモールは高齢者や子連れ、妊婦など交通弱者にとっていい散歩コースになる。
高齢者が利用しやすそうな店は百貨店サテライトショップ周辺と、無印良品などの生活雑貨系だろうか。
あとはフードコートにも集結していた。
 
少子高齢化、共働き世帯の増加で今後高齢客の占める割合はもっと増えるだろうし、その中には孫がいない人も多くなるだろうから、もっと高齢者自身に向けた商品があっていい気もする。
現在大きなスペースを占めている若年層向けのファッションブランドは、そのうち中高年層向けブランドを発表して取って代わるかも知れない。
というか、早く発表したらどうだろうか。
もし私が60代で、ユナイテッドアローズシルバーレーベルとかがあればおそらく通うだろう。
年を取ったからといって急にシニア感にあふれた「ブティック」とか「洋品店」に行く気にはならないと思う。
かといって、20~40代も使うショップの中から自分でも着られるものを探す、というのは「ターゲットでないけど利用させてもらっている」という感覚があって肩身が狭い気もする。
それにできれば体型や身体能力の変化に合わせたカッティングの服がいい。
テイストと価格帯は変えずに作りを熟年仕様にしたような、それまで使っていたブランドのセカンドラインというか、グランドラインみたいなものが欲しい。買い物王に俺はなる。

10代のカワイイ文化が世界に羽ばたいたように、高齢化先進国の日本こそ世界に発信するくらいの勢いでじじばばが粋に装う文化を育ててほしい。
その際のポイントは、郊外からでも電車を乗り継いで聖地原宿・渋谷を目指し、時に食事を抜いてでも服を買う10代とじじばばは違うということだ。
限定的な聖地から発信するのではなく、アクセスの容易な各地のショッピングモールで手の届くブランドがファッションを牽引した方が効果的なはずだ。
若年層向けファッションの世界において郊外のモールはフォロワーだが、熟年層に向けてであればトレンドセッターになれる可能性があるのではないか。
 
同様にバリエーションが欲しいなと思うのがカルチャーセンターだ。
カルチャーセンターという名称は落ち着きすぎていて高揚感に欠ける上、定期的に欠かさず通わなければいけない感じがするので入りづらい。
特に引退直後の男性なんかは、地域のもの、主婦のものといった雰囲気の強いこの名称では入りづらいのでは。
もっとカフェみたいなノリの店舗にしてもらえたらふらっと訪れたくなる。
貴和製作所ラフォーレ原宿でやっているカフェ(パーツ販売と工具の貸し出しがあるのでその場でアクセサリーを作れる)のようなイメージの手芸カフェとか、ゲームセンター感覚で行きずりの人同士が対戦できる囲碁将棋カフェとか。
もちろん定期的に通いたい人もいると思うのでそれはそれでいいのだが、子供向けのアミューズメント施設のように、ふらっと来た老人が1回きりで楽しめる体験型施設があってもいいのではないだろうか。
 

男性客の居場所問題と物販施設からの脱却

高齢者の他にも居場所が足りなさそうな存在が男性客だ。
服や雑貨ばかりを何時間も眺められる男性はそこまで多くないだろう。
男性が家族の用事を待つなど時間を潰すために使うのは大抵本屋かフードコートあたりだが、どこのモールでもそんなものなので、何か目新しいものがないと毎週末を本屋かフードコートで過ごす羽目になりかねない。
モールに行きたがる家族を伴わない場合、男性の来店動機はますます希薄になる。
今後働き方の多様化が健全に進めば平日の男性の自由時間は増えるはずなので、男性客のニーズは軽視できない。

電器屋なんかも男性がふらつきやすいが、ショッピングモールがそこまで力を入れるべきジャンルではない。
普通の店をただ広くして商品数を増やすような力の入れ方になるならなおさらだ。
郊外に行くほど住民のAmazon楽天への依存度は高まる。これに太刀打ちできない。

都会の商業施設にも言えることだが、ネットショッピングの浸透により実店舗がショールーム的な使い方をされがちな現状では、むしろショールームのような姿で利益を上げるモデルを探る必要がある。
本施設にもあるブックカフェはその路線と言えるだろう。
電器屋でやるなら、調理家電を試せるレンタルキッチン、PCやプリンターを使えるコ・ワーキングスペースといったあたりか。

今ショッピングモールにあったら素敵なのは、3Dプリンターやレーザーカッターを使ったデジタルな工作を楽しめるFABカフェだ。
先述した気軽に入れるカルチャーセンターとして利用できるのはもちろんだが、何より個人がものづくりをして発信する時代の空気を伝搬させてほしい。

ふらっと参加できるという方向なら、スポーツバーもいいかも知れない。
夫に「女性にとってのファッションと同じ感覚で男性の多数派が興味あって気軽に見られるジャンルって何?」と訊いたら「やっぱりスポーツじゃない?」とのことである。
映画館でのライブビューイングなどはその需要を想定したものだろう。

郊外に不足しているのは物ではなく、文化に触れる機会だ。
特に参加型且つ出入り自由な文化コミュニティは一定の人口密度があり匿名性が高い都市部の方が生まれやすい。
人口密度の高い場所を人工的に作り出しているショッピングモールには、そんな機会の提供こそが期待される。
その役割をうまく担えれば、男性客に限らず、より幅広い層の集客につながるのではないか。

求められるのは「街を歩く感覚」

最後にショッピングモール全体の構成について触れたい。

百貨店や駅ビルが多層化し人を目的に応じて上下させる構成なのに対し、モールは横へ横へと拡大された平面を回遊する形態を取り、街を散策しているかのような感覚を演出する仕組みになっている。
外の光を取り入れたり、吹き抜けで開放感を演出したりといった作りもそのためだ。
家族連れや買い物袋を持つ客が行き交いやすいように通路幅はどこも一定でゆとりがある。

このように快適な街歩きを実現するための配慮に富む一方、ショッピングモールが実際の街に敵わない点がある。
それは猥雑性と排他性だ。
これらはショッピングモールの目指す方向とは対極にあるが、大いに街を面白くする要因になる。
住みたい街ランキングの常連を例にとってみても、吉祥寺の駅前の賑わいやハモニカ横丁はごちゃごちゃした魅力があるし、恵比寿はおしゃれ偏差値60以下立ち入り禁止とでも言わんばかりの空気が街のブランド価値を高めている。

こうした類の魅力を持つのが難しい以上、ショッピングモールが目指すべきは「誰もが何かに出会える面白さ」のある街だ。
ハード面はある程度均質になってしまうので、やはりソフト面に頼ることになる。 
今回訪れたららぽーとに参加型、イベント型のテナントが多く見られたのがそんな方向性を表しているように思えた。

というように、郊外のショッピングモールはまだ進化の余地を残している。
都会の商業施設、ネット通販、駅前のパチンコ店など手強いライバルに負けずこれからも健闘してほしい。
Amazonの段ボールを開けながら思った。

私には女子校力が足りない

クソLINEへの敗北

せっかくブログを始めたのでなるべくコンスタントに書きたいと思っていたが、頻繁に起きる子の寝かしつけをしながら自分も寝てたり(寝かしつけ後の時間に書くことにしている)、書いてみた文章が説教臭くてなんだかなだったり、目が冴えた夜に限って知人から送られるあまりこういう言葉は書きたくないがクソと言わざるを得ない内容のLINE(以下クソLINE)に対応したりと、中々に多難であった。

 
論旨のはっきりした文章を書こうと思いすぎて更新できなかった反省と、クソLINEに費やした時間を昇華させたいという思いから、恐縮なほどに私事で特にこれといった解決もない今回のエントリを書き進めてみたい。
 
まずクソLINEの概要について触れておくと、送り主は2歳年上の独身男性である。
仕事上の知人として円満な付き合いをしており仕事中や飲み会でもよく話す間柄であったが、それ以上の関係ではない。
先日1年振りに連絡が来た。
以下大まかな流れ
知人「久しぶり、元気?」
私「お久しぶりです、おかげさまで元気です」
知人「最近旦那とはどう?」
私「万事快調ですよ」
知人「最近飲んでる?」
ここまでで夫との関係及び近々飲みに行けそうかを探ってくる
私「子供生まれたので禁酒中です」
知人「そっかおめでとう」
知人「ところで育児中って性欲あるもん?」
私「はあ…別に普通ですが(唐突すぎるだろ)」
知人「そのへん詳しく聞いていい?」
私「詳しくは言えません(落ち着け)」
何度か話題を逸らしながら会話を続けるも、途中隙あらば性的な話題を振ってくる知人
知人「ツッコミ鋭いな〜。性癖SかMかで言ったらSでしょ?」
私「どちらでもないです(めげないな…あとその二元論飽きた…)」
知人「男の感じてる表情とか好きでしょ?」
私「はあ…相手によるでしょうね(質問形式で言えば必ず答えが返ってくると思うな)」
知人「どういうプレイが好き?」
私「すみません寝落ちします(おまわりさんこいつです)」
 
強制終了にもめげずに翌日も連絡が来たが、これ以上対応の仕方がわからないので無視した。
飲みに行けないことを察知して以降も攻めの姿勢を崩さないあたり「取れるもんは取っとけ」とでも言わんばかりのハングリー精神に溢れていた。
そこまで切羽詰まっているなら既婚者の私よりもっと機動力の高い女子を探した方がいいと思うが、余程人材が不足していたか、持て余した人妻は落ちやすい的な豆知識を仕入れたかのどちらかであろう。
 
不毛な時間と引き換えに疲労感が残った。
 

敗因は我にあり

私は知人に誘い出されることも性的なプライバシーを晒すこともなかったが、必要以上の時間を費やしたことと欲望にあてられた点で既に敗北した気分であった。
思っていた以上に知人が下衆であったことが最大の原因だが、私の対応にも敗因がある。
見てわかるように、知人の振りに対して私は表面上会話を成立させてしまっている。
目上の相手なので角を立てまいという思いと、相手が良識を持って察してくれるだろうという期待から、愛想のない返答で拒否感を示そうとしたがまるで無力だった。
いっそ()内のセリフをそのまま伝えるべきであった。
 
なお、この会話だけを見ると知人の人間性が疑われそうだが、日頃は不愉快な人ではなくむしろ尊敬できる人物である。
だからこそ「お茶を濁せば察してくれるはず」と期待してしまった。
それまで良好な関係にあった人が突然不審な言動を始めたとき、すぐに拒絶の体勢に転じるのはけっこう難易度が高い。
相手の気を損ねてはならない、冗談の通じないキツい女と思われたくない、など後から考えたらどうでもいい懸念がまとわりついてくる。
だがそんなこととは関係なく、こちら側には「はっきり拒絶しなかった」という事実が残ってしまう。
 
会話の末に知人の発する内容はイタズラ電話のレベルになり私には不快感が残ったのだが、仮に第三者に不快感を訴えてもこれでは説得力に欠けるのではないか。
このLINEに端を発したストーカー行為を警察に相談に行き警察官に文面を見せたら「これじゃー相手も勘違いしちゃうよー、なんでもっとはっきり拒否しないの?」と言われて「そうですよね…」と力なく笑う私、というところまで瞬時に妄想した。
もちろんそんな被害に発展してはいないのだが。
それでも実際におこった性暴力の事例で「なぜ被害者はもっと早くに拒絶しなかったんだろう」と思われるようなケースの背景にはこういった心理が働いているのではないかと身に染みて感じられた。
そう考えると、強姦の加害者は行きずりの他人よりも被害者の知人・友人が多いということに急速にリアリティが湧いてくる。
 
話を私事に戻そう。
敗因は私にある、と書いたが、敗因があるから私が悪かった(ひいては暴力や強制はそれを拒絶できない被害者に落ち度がある)などとは思わない。
ただ私がより迅速な拒絶テクニックを身につければ、今後似たような場面が訪れたときに私も不快な思いをせず、相手も醜態を晒さずに済むだろう。
もっとそういう力を磨きたい。
ここで脳裏に浮かんだのが「女子校力」という言葉だ。
 

女子校出身者は「異を唱える力」に長けている

女子校力という言葉は今作ったものだが、私は以前からこの力の存在を感じていた。

私は小中高と共学校で過ごし、大学では工学部に所属し、社員の9割が男性という会社に理系就職した。

共学育ちどころか後半はもはや男子校に通っていたと言っても過言ではない。

そんな私が周りの友人達を見てみると、共学校出身者よりも女子校出身者の方がある種の逞しさを持っている傾向がある。

その逞しさとは、社会の理不尽や不条理に異を唱える力だ。

 

世の中の、特に人間関係や男女問題が絡む事柄について「よくあることだから」「そういうものだから」となんとなく流されていることを「それおかしくない?」とあっさり切り捨てるタイプは女子校出身者に多い気がする。

共学校という現実社会のミニチュアのような空間で過ごしていると、異性を交えた組織への順応力は上がるが、順応しすぎて違和感や問題意識をスルーしてしまうこともあるように思う。

(おそらく日常的に男性の目を感じずに行動する経験が少なく、異性の視点を取り入れることが多かれ少なかれライフハックになるため、世間に転がっている玉石混交の「男性目線」を玉も石も受け止めてしまうのではないか。

これは別に同級生男子が圧力をかけてくるからというわけではない。

むしろ同級生男子と友好な関係を築いた経験があるからこそ、社会で理不尽な目にあっても「そんなに悪意をもった男性がまさか身近にいるまい」と事態を甘く見ようとする傾向が少なくとも私にはある。)

それに比べて女子校出身者はもっと自分の感覚に正直というか、余計な順応が少ないように見える。

当人たちはそれを「空気が読めない」「世渡り下手」「男を立てられない」などと自嘲する傾向があるように思うが、澱んだ空気を読んで腐敗した世を渡り自力で立てもしない男まで立てる必要があるだろうか。

 

おかしいと思うことをおかしいと言うことはコミュニケーション能力の不足などではない。

むしろ真のコミュニケーションですらある。

波風立つことを恐れずに理不尽を拒む率直さ、それを女子校力と名付けたい。

 

女子校力を磨きたい

 学校というものを卒業して久しい私が女子校力を磨くにはどうすればよいのか。

 

まず自覚したいのは、はっきり相手を拒絶できないのは優しさではなく保身だということだ。

拒絶したい相手にすら憎からず思われたいというのは無茶な欲求なので諦めよう。

 

そして自分の感覚を尊重したいなら、他人の感覚も尊重すべきだろう。

やってはいけないのが、「これはおかしい」と声をあげる女子校力の高い人に「大げさだ」「そこまで事を荒立てなくても」と意見を封殺することだ。

 

当然だが、女子校力は男子でも持っているものだ。むしろ男子こそ強い女子校力が必要と言えるかも知れない。

女子が「口うるさい」「可愛げがない」などと人格否定されることを恐れて思ったことを言いづらくなるように、男子の場合も「器が小さい」「根性がない」などという言葉を圧力として感じることが少なくないだろうから。

 

今回遭遇した迷惑行為をきっかけにコミュニケーションについて考えることができた。

ありがとうクソLINE。

とは決して言うまい。

 

子育てに苦労ばかり求めるのは社畜を養成する心理と同じ病だ

今度はベビーシッター

道端アンジェリカさんの育児に関する発言が炎上、という話題を目にした。(http://m.huffpost.com/jp/entry/6944656
アンジェリカさんの発言の真意(の推察)については後述するとして、話題の核は「子育ての負担を減らすこと、楽をすることが何故いつも批判されるのか」ということで、アンジェリカさん批判へのカウンターの多くはここを疑問視したものだ。
 
ベビーカーやハーネス、子連れでの外出など、子育てを助ける道具やサービスをめぐっていちいち同じような意見の応酬があるのは不毛極まりない。
不毛ながらも 毎回議論が盛り上がってしまうのは、やはり子育て中の家庭が日頃から育児に対する風当たりの強さや抑圧を実感しているからではないか。
 
一方で、親たちを助ける、いわば楽をさせるためのアイデアをことごとく批判する人達の主たる言い分は「子育てをしっかりまっとうすべき」というものだろう。
それは間違ってはいないが、彼らの繰り出すべき論には決定的に欠けているものがあり、それが子育て当事者をしばしば追い詰めている気がしてならない。
それは、子育てが長期的に取り組む仕事であり、何よりも持続可能性を重視しなければ成り立たないということだ。
 

批判で追い詰められるのは多くの真面目な親たち

ベビーシッター発言を批判した多くの人が前提としているのは「親が自分の楽しみや休息を求めて楽をすることは子育てをおろそかにしようとしているからだ」という考え方だ。
確かに毎晩のように子供を放っておいたり連れ回したりして大人の遊びに付き合わせる、というなら問題があるだろうし、おそらくそうした「極端に自己中心的な親」のイメージがあるために批判をするのだと思う。
 
しかし実際に子を持つ親の多くは、子供への責任感が強く、真面目にやっているからこそたまには息抜きしたいと考える人達だろう。
私も病院や子供の遊び場で出会う母親達や子持ちになった友人を見て、「この人こんなに適当で大丈夫かな」と感じることはとても少なく、むしろ「そこまで真面目に考えてるんだな」と思うことが多々ある。
育児雑誌やネットの質問板などを見ても、子供の食事や遊び、病気、しつけ、言動など様々な事柄に対する多くの親の不安感や問題意識が表れている。
 
こうした真面目な親達は外部の意見にも敏感なので、今回のような子育てネタの炎上に対してはさらなる抑圧を感じてしまうことだろう。
批判に対して「母親に我慢や苦労ばかり求めるな」と反論する女性は多いが、彼女らは「子育ては辛いからとにかく楽させろ!大変なことは何もしたくない!」と言っているのではなく、「子供と生活していれば自然と我慢や苦労が発生するし、それを日々こなしているからこそ、これ以上のものを外野から押し付けられたらやっていられない」と参っているのだと思う。
 
このように述べても、「実際に非常識な子持ちと遭遇したことがある」「現代は虐待の件数も増えている」などを根拠に批判をやめない人はいるだろう。
しかしその批判を非常識な親とやらが耳にしたとして、わが身を振り返り改めるようなことが果たしてどのくらいあるだろうか。
また、ここで指摘する間でもないが、虐待の通報件数が増えている一因は「虐待という問題が認知され通報の敷居が下がったこと」であるし、実際に虐待や育児放棄に至る家庭を「子育ては楽せずしっかりしろ」なんて外野の高説で救えると思っているなら相当呑気だ。
 
「子育ての手を抜くな」という世間からの圧力は、元々真面目にやっている人をさらに追い詰めること以外に何か成果を生むのだろうか。
もし単に「とにかく他人が楽したり得したりするのが気に食わない」という荒んだ心境で文句を言っているのだとしたら、その人は他人に口出ししている場合ではないくらいに自分の生活に綻びがあるはずなのでどうかそちらを気にしてほしい。
 

子育て当事者と批判意見との意識のズレ

「子育てにおける楽」を批判する側とそれに反論する側では意識に隔たりがある。
 
子育ての当事者にしてみれば、「子供より自分が大事だから楽したい」のではなく、「子供にとって自分が大事だから楽したい」のだ。
子育てで一番避けなければならないのは、子供を危険に晒すことだ。
つまり親が肉体的に疲弊して倒れたり、精神的にゆとりがなくなり子供を攻撃したり受け入れられなくなったりすることである。
親が自分を犠牲にして頑張る姿ばかりを要求するのは、こうした危険を避ける配慮が欠けている。
 
では子育て批判をする人の全てが世間の親にプレッシャーを与える目的で発言しているかというと、そうでもないような気がする。
現在当事者でない人は、子育てが毎日の課題としてのしかかっているわけではないので、長期的に見て無理のないやり方をとろうとか、できることは効率化しようという発想があまり浮かばない。
そういう人が子育ての話題を振られると、いわば時々孫を預かって張り切る祖父母目線で「常に子供優先で全力で向き合うことが子供のためになるはずだ」と考えて意見してしまう傾向があると思う。
このあたりのズレが無益な論争を呼ぶ要因になっているように思えてならない。
 

世間に蔓延する社畜根性=苦労至上主義

子育てに限らず、楽をしたがることは不真面目な証拠、という論調はどんなトピックにおいてもよくある。
しかし、物事を真面目に考えるほど、楽という名の効率化を求めるのは必然ではないか。
短期的な勝負ならともかく、長期的に取り組む必要のあることに関して言うなら、楽をしないでひたすら己を追い詰めて突っ走るべき、というほうがむしろ余程ナメた態度と言っていい。
大事な仕事であればあるほど、突っ走った末にコケる損害を考えないのは不誠実である。
その不誠実さを直視せず「やる気があるなら楽しようなどと考えないはずだ」というのはブラック企業体質あるいは昭和企業体質が染みついた思想で、どちらにしても社畜根性丸出しである。
 
そう、家庭でも企業でも結局は社畜根性に基づいた物言いが多くの人を苦しめているのではないか。
「親、特に母親は自己犠牲をいとわず子育てに取り組むべき」というのは、「社会人、特に男性は私生活や家庭を犠牲にしてでも仕事を優先すべき」という発想と地続きに見える。
 
そして社畜根性の正体とは、苦労至上主義である。
社会人でも主婦でも高校球児でもアイドルでも、「余裕をもって取り組んでいます」という人と、「いつも全力です、苦労しています」という人では後者が好感を持たれる傾向がある。
仕事ができるか、とか、憧れるか、といったベクトルで尋ねれば余裕を持った人が評価されることもある。
ただ最終的に好きか嫌いかといった感情レベルでは、やはり楽や余裕を作らず苦労を重ねる人を「より頑張っている」と捉えて肯定する向きが強い。
 
苦労を乗り越えることで価値が生まれることもある。
それは否定しない。
ただ、何かを真剣にやっているということが、どれだけ苦労しているかでしか測れないことは問題だと思う。
 

余裕は誇れないものなのか

苦労至上主義は国民病のようなものであり、脱却が難しい。
多くの人がそれを内面化してしまっているからだ。
 
子育てに話を戻せば、当の親達自身が「楽をしようとしては子供のためにならない」という思想を刷り込まれていて、毎日の継続がしんどくなるような子育てを目指してしまうことが多い。
子育てを難なくこなせてしまうと、自分はあまり頑張っていないような気がして自己肯定感が得られない。
 
 必要に応じて楽をすることは、仕事を自分に合ったものにカスタマイズする工夫であり、そこのところをもっと皆で評価しあっていいはずだ。
「私、けっこう楽に楽しくやれてます!」と堂々と言えばいいし、周りも「工夫してよくやってる!」と褒めればいい。
しかし現実には「子供より自分を優先しているのでは」「もっと苦労している人もいるのに」などと言われる。
苦労自慢にはそこそこ市民権があるのに、余裕自慢は批判ややっかみを呼びやすく、なかなかハードルが高い。
そもそも自慢するという行為のハードルが高い。
基本、謙遜が美徳なのだ。
苦労した代わりに社会に認めていただく、というのがこの国での自己肯定のあり方なのかもしれない。
 

成果がはっきりしないことほど苦労で評価されがち

これからも私達は自己肯定感を得るために非効率的な苦労合戦を続けるしかないのか。

お互いの余裕を評価しあうなんて性に合わないことなのだろうか。

いや、そんなことはないんじゃないか。

学生時代を思い出してほしい。

皆いかに勉強していないかを競うように自慢していたではないか。

テスト前になると「やばいわー全然勉強してないわー」と言い合ったあの頃の気持ちを忘れたのか。

誰もが自分の余裕を演出し、必死でいきがっていた。

今こそ本当に余裕を誇るべき時なのだ。いきれ。そして生きろ。

 

と、ここまで考えて気づくのは、学生時代のほうが余程成果主義だったのではないかということだ。

「社会に出たら結果が全てだ。頑張りましたなんてのが通用するのは学生のうちだけだ」などとよく言われるが、これって逆なんじゃないかと実際社会に出て思うようになった。

試験の成果は容赦なく数字で示されるが、勉強方法やどれだけ根を詰めたかという過程に評価が下ることはない。

勉強する場所は自分の部屋でも図書館でもカフェでもいいし、毎朝早起きして1時間ずつ勉強しようが、試験前に徹夜しようが自由だ。

試験の点数というはっきりした評価軸があるからこそ、過程にある苦労をアピールする意味があまりなかった。それゆえに余裕アピールすら可能だったのである。

 

それに比べると、学校の外の社会では成果がそこまで明確な数字にならない。

というか、勉強ほど努力が成果にすんなり繋がらない。

そこで人を評価しようとすると、過程に目がいく。

どれだけ頑張っているかを評価基準に加えたくなってしまう。

するとだんだん努力の仕方に注文が付けられるようになる。

しまいには「デキる社会人は始業時間の30分前には席についている」とかわけのわからないことを言い出す人間が現れるのだ。

 

子育てという仕事ほど成果が測りにくいものはない。

何を成果と呼んでいいのか、どこまでが自分の努力の結果なのかがはっきりしない。

どれだけ頑張ったかで評価されやすい、即ち苦労至上主義に陥りやすい仕事なのだ。

 

自分と他人の余裕を肯定できるようになりたい

問題の根が深すぎてすぐにどうこうできるものではないが、とりあえず私自身がこうした空気に飲まれないように実施している考え方を書いておく。

  1. 自分が楽しく過ごせていることを成果と捉える。家族や友達と「楽しかったね」などと口にしあう。
  2. できるときには人を助ける。

書いてみたらすごく普通のことだったが、普通が一番難しいって誰かが言ってたような気がする。

2番目は何かというと、自分の持っている余裕を人に還元するつもりの行動だ。

自分より暇そうな人、楽そうな人を見るとイラッとしてしまうのが人情だが、「そういう余裕が巡り巡って自分や誰かを助けてくれる」と思うと黒い感情が治まる。

そう思うためには人の余裕が人を助けるという実感がないと難しいので、自分で実例を作っていけばいいのかなと思っている。

そんな感じで苦労至上主義からの脱却を図ってはいるが、私は会社員時代に常態化した長時間労働に喘ぎ、5時前に帰り支度を始める受付の方々を横目に見ながら「爆発しろ…」と思念を送っていた狭量な人間なので、まだまだ修行中である。

 

アンジェリカ発言の真意

さて、冒頭で触れたアンジェリカさんの発言についてだが、実際の映像を見ないで触れるのもなんなので、見てみた。

「週に1度はベビーシッターに子供を預けて夫とディナーをしたい」という発言の真意は、子供が生まれても男女の関係でありたい、実際はそうでなくなってしまう例が多いことに不安を覚える、というものだった。

 こちらはこちらで相当根が深い問題で、レストランでディナーをするのが男女であるということなのかとか、妻が女じゃなくて母になってしまったとかいうよく聞くフレーズへの違和感とか、いろいろな思いが浮かんできたのだがこれも長くなりそうなのでまた別の機会に。

『デート』『問題のあるレストラン』の共通点と最終回の差

今期2トップ作品の共通点

ついに『デート』も終わってしまった。

今季のドラマは話題性が高いものが多かったが、中でも『デート』と『問題のあるレストラン』をあわせて評価している人が多かったのが印象的だ。
私も、この二作にハマっていた一人だ。
そのため勝手ながら見出しで今期2トップと据えさせていただいた。
 
言うまでもなく両作品に共通する大きな魅力は、軽妙なセリフの応酬と小ネタを散りばめた脚本である。
毎週必ずツボに入るシーンがあるのは嬉しい。
また、アクの強いキャラクターとそれを的確に表現する演技・衣装・美術、旬の俳優陣、主題歌の歌詞との世界観のリンクも多いに楽しませてくれた。
 
つまりはどちらもドラマとしての完成度が高いということなのだが、それ以上に、描かれたテーマが時代に適合していたために高評価を得たと思う。
そして二つを並行して観続けた人が多いのはテーマに類似性があるためだろう。
 
これらはどちらも現代を生きる個人の「ままならなさ」を描いた物語である。
 

『デート』最終回までの感想

『問レス』については既に重量感あるレビューを書き散らしたので『問題のあるレストラン』最終回感想 なぜスプーンは落とされたのか - こりくつ手帖、ここでは『デート』について触れたい。
 
まず1話から理系女子と高等遊民の弁舌が冴え渡り、完全に持っていかれた。
理系女子である私は依子のような理系女子に出会ったことはないが、そのあたりのリアリティはどうでもよくなるほどに二人の理屈は痛快だ。
「恋愛を必要としない結婚があったっていい!」「どうして男には働かないという選択肢がないんだ!」どちらもおっしゃる通りだ。
 
個人の生き方、とりわけ結婚と仕事に関する選択は、ここ数十年で旧来の抑圧からはだいぶ自由になったように見える。
けれど、なんでも自由に選んでいいよと言われる一方で正解とされる選択は依然としてあり、そこから大きく外れる選択を肯定することは当人にも周囲にもハードルが高い。
旧来の結婚観・家族観から脱して自由な恋愛を獲得したら、今度は「自由恋愛の末結婚すべし」という命題が生まれてしまった。
男は仕事、女は家庭という価値観の押し付けを拒否したら、今度は「男も女も、仕事も家庭も」という新たな圧力が生まれてしまった。
とかくに人の世は住みにくい!BY!漱!石!
 
そんな閉塞感漂う社会への不適合を全身で表明しながらも周りの人間と誠実に向き合う依子と巧の姿は清々しく、彼らがありのままで幸せになれることを願わずにいられない。
まさか巧が依子のために就職活動を始める、みたいなラストだったらモヤモヤだな…と思ったのだが当然そんなこともなく、二人は最後まで変わることなく迎えるべき結末を迎えた。
安定のフライトである。
 
どうせなら本当に恋愛抜きの結婚をさせたらとも思ったが、それではカタルシスがなさすぎるか。
初回で月9らしさを裏切った二人が月9らしさの極みに到達するという明快な面白味を味わわせてくれた最終回だった。
 
さらに安心して観られる要素を挙げれば、依子と巧は生きづらそうなキャラクターだが、周りの登場人物はクセはあっても善人ばかりで、二人が疎まれたり避けられたりする場面もほぼない。会話が成り立たない人物がいない。
『問レス』初期のダメ男オールスターズにささくれ立った心をなだめる意味でも、セット視聴推奨である。
 

2作の最終回の評価に差がついた理由

『デート』最終回は「伏線回収も見事な納得のハッピーエンド」と高評価が目立つ。
一方『問レス』は最後まで楽しめたという声と、最終回で評価を下げる声の両方が聞かれた。
 
先日レビューで述べたように『問レス』が裁判とビストロ閉店の説明をしなかったことは大きいが、それ以外にも、両作品が次のような対照的な構造を取っていることに原因があるように思う。
  • ままならなさを抱えて挑む対象が「恋愛」か「社会」か
  • はじめに裏切るか、後から裏切るか
2作とも、世の中で当然のようにまかり通っている理屈がいかに人格ある個人を抑圧しているかを共通して指摘している。

生きづらさを抱えた私達は社会が変わってくれることを願っているが、一朝一夕には変わらないのは厳然たる事実だ。

 

『デート』は「恋愛不適合」な二人が「恋愛できるのか」が主題である。

巧が高等遊民でいる事情は説明されているが、彼が働くためにはどうしたらいいかという答えを社会に求めてはいない。

依子も不器用であるが職場では能力を発揮できているし、恋愛においても、理屈っぽい女を避ける男ばかりで困る!こんな世の中はおかしい!というように他者の変革を求める向きはあまりない。これまで恋愛できなかったのも、あくまで依子が主体的に好きになる相手が見つからなかったからだ、ということがバレンタイン回などで示される。

(なお二人ともお見合いパーティーではそれなりに他者に冷遇されるが、二人も負けず劣らずの厳しさで他者をジャッジしている。)

恋愛が成り立つかという命題は二人の間にあり、二人で決着をつけられるものだ。

 

『問題のあるレストラン』が挑んだのは理不尽な社会の構造だ。

戦う女達の苦悩はリアルで共感を呼ぶが、リアルであろうとすればするほど問題の根深さが浮き彫りになっていく。

問題が複雑すぎる。スッキリした結末を描かない方がかえって誠実なんじゃないかとすら思う。

 

さらに、上記の違いから生じる差でもあるのだが、主に登場人物の心情が『デート』は後半に向けて分かりやすくなり、『問レス』は後半に向けて分かりにくくなる。

 

『デート』の二人は月9らしからぬ恋愛不適合な変わり者として登場した。

それが話が進みお互いが対話を重ねるにつれ、不器用な女と優しすぎる男といった親近感のある姿でもって描かれていく。

 

一方『問レス』は女が被る理不尽あるあるで共感を集めた前半から、後半はまだまだ議論の足りていない「男社会の中の男が抱える問題」にも光を当てて視点を分散させているため、理解の難度を増すつくりになっていた。

また、社会をどう生き抜くかということへの答えは千佳の「自分で自分をつくる」というセリフなのだが、これも「社会がクソでも自分をつくることだけは可能なんだ!」と捉えるか「そんなのわかってるけど他に答えはくれないんだふーん…」と感じるかという差が発生しただろう。

 

全編を通せば甲乙つけがたい

以上のようにテーマと構造の面で終盤の『問レス』はいささか不利であると思う。

千佳のキャラクターの変化や二人のセーラージュピターの戦いと和解など(理不尽あるあるのピーク)の盛り上がりの大きさを考えれば、2つの作品は甲乙つけがたいものだったと感じる。

 

これらが月曜と木曜、という配置も一週間を楽しく過ごすのにちょうどよかった。

充実したフィクションは日々のノンフィクションを充実させる。

 

『問題のあるレストラン』最終回感想 なぜスプーンは落とされたのか

今クール観てきたドラマのひとつ、『問題のあるレストラン』が終了した。

直前の第9話を観た時点では
「残り1話で収まらないっしょコレ…」
と思っていたのだが、終わってみればここ最近見たドラマの最終回の中でも屈指の腑に落ちる最終回だった。
すっきりした。やられた、と思った。
 
でも明らかに賛否が割れそうなまとめ方なのでTwitterなどを見たらやっぱり割れていて、またまた腑に落ちた。

 言うまでもなく、裁判とビストロ閉店の経緯への説明がなく、雨木社長との対立関係があっさり終了していることがモヤモヤを生む主な要因になっているのだが、まさにそこが技ありだったように思うのだ。

あの妙にフワフワした最終話の何がどういいのか、ってのが言い表されてるテキストが欲しくなったので、自分の解釈をまとめてみることにした。
(長いです。)
 

9話までに描かれたもの

このドラマが1話でぶち上げた命題は『男社会で女が直面する理不尽とどう対峙するか』。
ドラマの序盤は理不尽あるあると、女達が戦闘態勢に入りまとまっていく様が描かれる。
でも女だけの世界を作ってそこでうまくやれればOKってのは非力じゃね?と思ったら、川奈の「美人OLストーカー事件」はやっぱりうやむやな幕引きとなり、一方で喪服新田も星野の行動に傷付いていた。
そこで烏森が「誰かが怒る方をやんなきゃいけない」と覚醒。
理不尽に対してちゃんと怒り、対峙することの必要性が語られる。
そして被害者の五月にとって裁判がどんな意味を持つのかにフォーカスしたのが8話だ。
 
この辺りまでで既に『女がどう戦うか』という内容はほとんど示されていて、代わりに存在感を増してくるのが男達だ。
門司や星野の変化、五月の恋人(共闘できる男)の登場と、男性キャラに多様性が出てくる。
9話では元部長土田の内面(娘への感情と現状への諦念)を書き加えたり、門司が「雨木社長もあっくんなのかも知れない」と語ったりと、『男社会に飲み込まれている男をどうすんのか』という問いが強調されるのだ。
 
男社会を作り運営する側と見なされる男達は、初めから女を差別しようと考えて生きてきたわけではない。
女と同様、既存の社会にただ産み落とされただけだ。
男女の立場に差のついた既存構造が、一部の男の無関心や横暴を招き、差別が再生産される。
凸凹に歪んだ既存社会の中で、女がどう抗うかだけではなく、男がどう抗うかを示さないと、問題はなくならない。
ドラマ終盤の問題意識はここに移っている。
 

裁判は雨木を救わない

最終話では、雨木に社会的制裁が加えられたことは確認できるが、裁判の詳細はまるで描かれない。
それは、裁判の結果が雨木を変えることがないからだろう。
たま子の訴えも、世間のバッシングも、雨木にとっては迷惑なクレームでしかなかった。
周りが何をしても、彼が他者の人格を認めることはなく、自分自身の人格を見つめることもないのだ。
 
他者の力では変われない、救われない人がいる、というのはリアルだ。
追い詰められて苦しんだ雨木が他者の苦しみに思い至り、多かれ少なかれ反省する…みたいなファンタジーにならなくてよかった。
 
裁判の流れを省かない方が親切ではあるし、何かの都合で1話カットされたのかも知れない。ただ、裁判を通して五月が望むような対話が可能な相手だったかどうかはもはや明らかだろう。
そこに時間を割かないかわりに最終話で描かれたのは、この社会を生きるための二つのメッセージだ。
千佳から弟への言葉と、屋上のビストロ閉店である。
 

大切なことはみんな千佳が教えてくれた

男女の不平等について考えるとき、息子に何をどう伝えていくかというのが難しいと常々思っている。
女を差別しないように気をつけろ、という言い方は男であるというだけで彼らを抑圧することになってしまいそうだし、男女は本来平等なんだよ、っていうだけだと実際はあちこちに転がっている女性差別男性差別に鈍感になってしまうかも、などと逡巡していた。
 
そんな中で千佳の台詞を聞いて、そっかシンプルにこれが基本だな、と感じられたのだ。

 

人に優しくすると、自分に優しくなれます。
人のことがわかると、自分のことがわかります。
人の笑顔が好きになると、自分も笑顔になります。

自分は自分でつくるの。

  

雨木社長が変わらないのは、彼が誰とも向き合っていないからだ。

他人は彼のすべてをつくることができない。

人には自らの行動でしかつくられない部分がある。

 

「セクハラってなに?」と尋ねるような幼い息子に雨木は「俺に代わって社会に復讐してくれ」と呪いのような言葉をかける。

歪んだ世界に今まさに飲まれようとしている少年よ…逃げて…!と思ったところで千佳が彼に歩み寄り、上記の台詞を告げるのだ。

 

ここで、千佳が弟の手を引き「もしかして連れて行っちゃうのかな?」と一瞬思わせながら、そうはしない、というのが秀逸だった。

私はあなたに何もしてあげられません、と彼女ははっきりと言うのだ。

女が守ったり癒したり許したりしなくても、彼には、男には、人には、自分で自分をつくる力がある。

社会や家族がどんな呪いをかけても変えることのできない部分が誰にもあるはずだ。

そんな希望を託すようなシーンだった。

 

誰かが他の誰かを完全に変えることはできない、という事実は、時に断絶を生み、時に希望ともなる。

その両方を雨木親子が表していた。

父の呪いを蹴散らす術を得るという形で、千佳の復讐は成された。

それはかつて父の写真に突き刺した包丁よりも、はるかに力強い。

 

屋上のレストランは何故閉店したのか

みんなで楽しくやっていたビストロが、突然外野からのクレームによって閉店。
どうしてやめなきゃいけないの?
確かにスプーンが落ちたのは過失かもしれない。
でもそんなに怒られることか?
顔も人格も見えないやつが、次々と文句を言ってくる。
とんだ邪魔が入った…。
 
この3ヶ月ですっかりビストロフーが好きになってしまった私達は、ついそんな風に考える。
しかし これって、「セクハラ訴訟に対する雨木社長の態度」と非常に似通っていやしないだろうか。
クレームの主の姿も主張も明かされないままのビストロ閉店は、彼の視点を追体験させるために描かれたように思えるのだ。
 
これまで画面上で有形無形の暴力にさらされる被害者は女達だった。
女の痛みを想像もせず自分達の居心地よい世界を手放さない男達の姿に、私達は苛立ちと既視感を覚えた。
けれど、最後の最後で女達が誰かにとっての加害者となったとき、ビストロフーという居心地よい世界の終了を惜しまずにはいられない。
 
被害者は暴力に敏感だが、同じ人間が加害者となったとき、同じように敏感であることは難しい。
問題のある「男社会」の解体が一筋縄ではいかない原因は、男が愚かだからではなく、今いる場所の居心地の良さを手放したくないという気持ちが誰にでも生じうるからだろう。
 
楽しい屋上のレストランから不注意で路上に落ちたスプーンは、誰もが発しうる「無自覚な暴力」の象徴だ。
私達は人生の様々な場面で、誰かの下に置かれたり、誰かの上に立ったりしながら生きている。
シンフォニックの向かいでも裏手でもなく、見上げたビルの屋上に現れて消えたビストロフーは、無自覚な暴力の被害者と加害者を転換させるための舞台装置だったのではないか。
その仕掛けを以って、加害者として暴力の指摘を受け止める難しさを私達は体感したのではなかったか。
 

エンタメ感を取り戻す後半

2皿のメインに満たされながらも、その重たさに(3人娘とともに)呆然としていると、最後のお楽しみとばかりに女たちが再び楽しげに動き出すシーンが次々と運ばれてくる。

ビストロ最後の光景、真夜中の恋バナ、そして300日後の海辺。

物語が終わりと始まりを告げる。

和やかな後半の端々にも意味ありげな要素が潜む。

  • プロポーズを巡りすれ違ったカップル。相手の思惑を勝手に想定せず、会話しようということか。
  • 戦いを経てもなお、恋バナで盛り上がり、門司達と海辺でレストランバトルを再開する女達。「戦う女は男を排除する怖いもの」ではない。一緒に幸せに向かっていきたいのだ。
  • たま子が発した「(いつか自分と合う人に出会うのを)あきらめない」という台詞は、「(男達と向き合い、共に生きることを)あきらめない」という意味合いにも聞こえた。

そんなことを考えながら最後まで個性的な7人を眺め、最終話が終了した。

 

その他雑感

  • 冒頭のみんなの夢。たま子に声をかけられる場所は、彼女たちが「自分には行けない」と強く意識していた場所。コンプレックスの素?(川奈=女一人で歩く都会の裏道、三千院=古き良き家庭像、ハイジ=女湯、新田=ボルダリング=頭だけでは通用しない、体も使って飛び込む場所=社会や恋愛?)
  • きゃりーぱみゅぱみゅ登場シーンのカップスは、レストランの楽しさを演出するとともに、「暗黙のルールや場の空気に従ってみんなが動く世界」を象徴。内輪には楽しく、外野にはいくらか不気味に映ることが表れている。
  • たま子と門司がスプーンのクレームについて話す場面の「たった一人のクレームで?」「他の人は何も言ってないんだろ」という台詞がやっぱり企業内のセクハラとリンクするような。
  • 週刊誌の『二代目社長の傲慢』という見出しへの雨木社長の呟き「俺は親父に何もしてもらってねえよ」という台詞。ほんとに何も教えてもらえなかったんだろう。
  • 周太郎(雨木息子)かわいい。
  • ビストロの黒字840円…300日後に海行ってる場合なんだろうか。でもここで大勝利ってのも違うか。
  • 「知り合いが相続税払えないって言ってて…」三千院さんやっぱ実家はそれなりにいいとこなのか。
  • 海行きてー。

 

おわりに

9話を終えた時点で説明しなきゃいけない事柄とまだ語られていないメッセージがあり、詰め切れるのか心配だったが、思いっきり説明の方を省いたことで最後までメッセージ性の強いドラマになっていると感じた。

最終話のメッセージを入れたことで、ジェンダーや差別を題材とするときに生じやすい偏りがだいぶ少ないものになったのでは。

1話あたりの「男が総じてクズ状態」が辛くて視聴を諦めた人(特に男性)にこそ観てほしいな、と思った。

 

けれどどうだろう。

これが男の生きづらさをテーマにした物語で、「女がみんな男を苦しめるダメ人間」という演出で始まるストーリーだったら。

私はここまで目を逸らさずに楽しむことができただろうか。

少し、自信がない。

 

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