『未来のイノベーターはどう育つのか』を読んだ
未来のイノベーターはどう育つのか――子供の可能性を伸ばすもの・つぶすもの
- 作者: トニーワグナー,藤原朝子
- 出版社/メーカー: 英治出版
- 発売日: 2014/05/13
- メディア: 単行本
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著者がアメリカの若いイノベーター達に子供時代の過ごし方から大学などの高等教育機関で得た経験などについてインタビューを行い、彼らのイノベーター精神を育んだのはどんな事柄か、これから子供達を育てるのに親や教育者は何を重んじたらよいか、ということが主に本書には書かれている。
好奇心とチャレンジ精神に満ち、自分の頭で考え、枠にとらわれず新しいものを創り出す――。あらゆる分野でますます求められるイノベーション能力の謎に迫る、親とビジネスパーソンのための教育書。
イノベーターの資質とは何か。なぜそれが今後ますます重要になるのか。それはどのように芽生え、どうすれば育てられるのか。
エンジニア、起業家、デザイナー、社会起業家、彼らの両親、グーグルやアップルなど独創的な企業の人材開発担当者、 MITやスタンフォードの教育者……大勢の人に取材を重ね、家庭環境から大学教育、企業文化まで俯瞰して見えてきた 「イノベーション能力」の源泉とは?
学校の外の世界をどう作るか
信じるって難しい
子育てで究極的に必要なのは信じることだ。まず親としての自分の直感、判断、価値観を信じること。また子供を信じること。子供にはユニークな感性と才能があり、学びたい、作りたいといった欲求があり、自分の潜在性を実現したいという内的なエネルギーがあることを信じるべきだ。
社会とつながるという言葉の本当の意味
自分を主語にする
おわりに
シュークリームの記憶
ららぽーと富士見に行ったついでにこれからのショッピングモールの話をしよう
ららぽーと富士見に行ってきた
まぁもっと率直に言うと、地方都市の画一化とかマイルドヤンキーとかの言論をふむふむと聴きつつも、近くに新しいSCができるとなるとワーイワーイと喜んじゃう子連れの私。
— 蔦谷ゆりか (@tsutayaeureka) 2015, 2月 25
立地条件・価格帯・新規性、埼玉の要求は高い…
- 大きな特徴は外資系ファストファッションの充実。埼玉南部の大宮、浦和、川越といった商業地にGAP、ZARAくらいしか置かれていなかったのが常々不思議だったが、こことさいたま新都心のコクーン2のオープンでオールメンバーがほぼ揃う形となった。OLD NAVY,Bershka,Stradivariusなど低価格かつ都内にも展開が少なく目新しいセカンドラインが多いところが上手い。
- 国内ブランドも買いやすい価格且つ知名度のあるブランド名が入ったセカンドライン(SC用ライン?)が多い。埼玉南部は東京へのアクセスが良いため、気合いの入った高い買い物をしたい時は東京に流れる。東京に行く気力がない場合も大宮あたりに流れる。よって、衝動買いやついで買いを狙える価格、遠方まで服を買いに行くほどのモチベーションはない状態の人が気軽に手に取れる価格が求められる。同時に、都内でもメジャーなブランド名が醸すトレンド感も必要。
- その一方で価格が少し高めのブランドもおさえている。ファッションではDIESEL、インテリアではACTUSなど。ちょっと良いものが見たい人も当然いるので嬉しいと思う。
- 個人的にはZARA HOMEが入ってるのが新鮮でよかった。
- 服飾と並べて生活雑貨をトータルで提案するいわゆるライフスタイルショップ系の店舗が多い。本施設に限ったことではなくこうした業態はトレンドだが、シンプル・リラックス・スローライフ的な雰囲気に概ね集約されているように思える。もう少し変わったテイストに振り切ったものも見てみたい。アパレル主導型なら、例えばゴスロリ系ライフスタイルショップとかも需要あるのでは。来年開業予定のイオンモール高崎駅前あたりでやれば北関東の聖地になれそうだ。
- レゴショップに心躍る。
- フードコート、飲食店のセレクトがいい。鉄道カフェ、ブックカフェも面白そうだ。BBQ広場があるのも空間を広く使えるモールならでは。
高齢化するショッピングモール
男性客の居場所問題と物販施設からの脱却
求められるのは「街を歩く感覚」
私には女子校力が足りない
クソLINEへの敗北
せっかくブログを始めたのでなるべくコンスタントに書きたいと思っていたが、頻繁に起きる子の寝かしつけをしながら自分も寝てたり(寝かしつけ後の時間に書くことにしている)、書いてみた文章が説教臭くてなんだかなだったり、目が冴えた夜に限って知人から送られるあまりこういう言葉は書きたくないがクソと言わざるを得ない内容のLINE(以下クソLINE)に対応したりと、中々に多難であった。
敗因は我にあり
女子校出身者は「異を唱える力」に長けている
女子校力という言葉は今作ったものだが、私は以前からこの力の存在を感じていた。
私は小中高と共学校で過ごし、大学では工学部に所属し、社員の9割が男性という会社に理系就職した。
共学育ちどころか後半はもはや男子校に通っていたと言っても過言ではない。
そんな私が周りの友人達を見てみると、共学校出身者よりも女子校出身者の方がある種の逞しさを持っている傾向がある。
その逞しさとは、社会の理不尽や不条理に異を唱える力だ。
世の中の、特に人間関係や男女問題が絡む事柄について「よくあることだから」「そういうものだから」となんとなく流されていることを「それおかしくない?」とあっさり切り捨てるタイプは女子校出身者に多い気がする。
共学校という現実社会のミニチュアのような空間で過ごしていると、異性を交えた組織への順応力は上がるが、順応しすぎて違和感や問題意識をスルーしてしまうこともあるように思う。
(おそらく日常的に男性の目を感じずに行動する経験が少なく、異性の視点を取り入れることが多かれ少なかれライフハックになるため、世間に転がっている玉石混交の「男性目線」を玉も石も受け止めてしまうのではないか。
これは別に同級生男子が圧力をかけてくるからというわけではない。
むしろ同級生男子と友好な関係を築いた経験があるからこそ、社会で理不尽な目にあっても「そんなに悪意をもった男性がまさか身近にいるまい」と事態を甘く見ようとする傾向が少なくとも私にはある。)
それに比べて女子校出身者はもっと自分の感覚に正直というか、余計な順応が少ないように見える。
当人たちはそれを「空気が読めない」「世渡り下手」「男を立てられない」などと自嘲する傾向があるように思うが、澱んだ空気を読んで腐敗した世を渡り自力で立てもしない男まで立てる必要があるだろうか。
おかしいと思うことをおかしいと言うことはコミュニケーション能力の不足などではない。
むしろ真のコミュニケーションですらある。
波風立つことを恐れずに理不尽を拒む率直さ、それを女子校力と名付けたい。
女子校力を磨きたい
学校というものを卒業して久しい私が女子校力を磨くにはどうすればよいのか。
まず自覚したいのは、はっきり相手を拒絶できないのは優しさではなく保身だということだ。
拒絶したい相手にすら憎からず思われたいというのは無茶な欲求なので諦めよう。
そして自分の感覚を尊重したいなら、他人の感覚も尊重すべきだろう。
やってはいけないのが、「これはおかしい」と声をあげる女子校力の高い人に「大げさだ」「そこまで事を荒立てなくても」と意見を封殺することだ。
当然だが、女子校力は男子でも持っているものだ。むしろ男子こそ強い女子校力が必要と言えるかも知れない。
女子が「口うるさい」「可愛げがない」などと人格否定されることを恐れて思ったことを言いづらくなるように、男子の場合も「器が小さい」「根性がない」などという言葉を圧力として感じることが少なくないだろうから。
今回遭遇した迷惑行為をきっかけにコミュニケーションについて考えることができた。
ありがとうクソLINE。
とは決して言うまい。
子育てに苦労ばかり求めるのは社畜を養成する心理と同じ病だ
今度はベビーシッター
批判で追い詰められるのは多くの真面目な親たち
子育て当事者と批判意見との意識のズレ
世間に蔓延する社畜根性=苦労至上主義
余裕は誇れないものなのか
成果がはっきりしないことほど苦労で評価されがち
これからも私達は自己肯定感を得るために非効率的な苦労合戦を続けるしかないのか。
お互いの余裕を評価しあうなんて性に合わないことなのだろうか。
いや、そんなことはないんじゃないか。
学生時代を思い出してほしい。
皆いかに勉強していないかを競うように自慢していたではないか。
テスト前になると「やばいわー全然勉強してないわー」と言い合ったあの頃の気持ちを忘れたのか。
誰もが自分の余裕を演出し、必死でいきがっていた。
今こそ本当に余裕を誇るべき時なのだ。いきれ。そして生きろ。
と、ここまで考えて気づくのは、学生時代のほうが余程成果主義だったのではないかということだ。
「社会に出たら結果が全てだ。頑張りましたなんてのが通用するのは学生のうちだけだ」などとよく言われるが、これって逆なんじゃないかと実際社会に出て思うようになった。
試験の成果は容赦なく数字で示されるが、勉強方法やどれだけ根を詰めたかという過程に評価が下ることはない。
勉強する場所は自分の部屋でも図書館でもカフェでもいいし、毎朝早起きして1時間ずつ勉強しようが、試験前に徹夜しようが自由だ。
試験の点数というはっきりした評価軸があるからこそ、過程にある苦労をアピールする意味があまりなかった。それゆえに余裕アピールすら可能だったのである。
それに比べると、学校の外の社会では成果がそこまで明確な数字にならない。
というか、勉強ほど努力が成果にすんなり繋がらない。
そこで人を評価しようとすると、過程に目がいく。
どれだけ頑張っているかを評価基準に加えたくなってしまう。
するとだんだん努力の仕方に注文が付けられるようになる。
しまいには「デキる社会人は始業時間の30分前には席についている」とかわけのわからないことを言い出す人間が現れるのだ。
子育てという仕事ほど成果が測りにくいものはない。
何を成果と呼んでいいのか、どこまでが自分の努力の結果なのかがはっきりしない。
どれだけ頑張ったかで評価されやすい、即ち苦労至上主義に陥りやすい仕事なのだ。
自分と他人の余裕を肯定できるようになりたい
問題の根が深すぎてすぐにどうこうできるものではないが、とりあえず私自身がこうした空気に飲まれないように実施している考え方を書いておく。
- 自分が楽しく過ごせていることを成果と捉える。家族や友達と「楽しかったね」などと口にしあう。
- できるときには人を助ける。
書いてみたらすごく普通のことだったが、普通が一番難しいって誰かが言ってたような気がする。
2番目は何かというと、自分の持っている余裕を人に還元するつもりの行動だ。
自分より暇そうな人、楽そうな人を見るとイラッとしてしまうのが人情だが、「そういう余裕が巡り巡って自分や誰かを助けてくれる」と思うと黒い感情が治まる。
そう思うためには人の余裕が人を助けるという実感がないと難しいので、自分で実例を作っていけばいいのかなと思っている。
そんな感じで苦労至上主義からの脱却を図ってはいるが、私は会社員時代に常態化した長時間労働に喘ぎ、5時前に帰り支度を始める受付の方々を横目に見ながら「爆発しろ…」と思念を送っていた狭量な人間なので、まだまだ修行中である。
アンジェリカ発言の真意
さて、冒頭で触れたアンジェリカさんの発言についてだが、実際の映像を見ないで触れるのもなんなので、見てみた。
「週に1度はベビーシッターに子供を預けて夫とディナーをしたい」という発言の真意は、子供が生まれても男女の関係でありたい、実際はそうでなくなってしまう例が多いことに不安を覚える、というものだった。
こちらはこちらで相当根が深い問題で、レストランでディナーをするのが男女であるということなのかとか、妻が女じゃなくて母になってしまったとかいうよく聞くフレーズへの違和感とか、いろいろな思いが浮かんできたのだがこれも長くなりそうなのでまた別の機会に。
『デート』『問題のあるレストラン』の共通点と最終回の差
今期2トップ作品の共通点
ついに『デート』も終わってしまった。
『デート』最終回までの感想
2作の最終回の評価に差がついた理由
- ままならなさを抱えて挑む対象が「恋愛」か「社会」か
- はじめに裏切るか、後から裏切るか
生きづらさを抱えた私達は社会が変わってくれることを願っているが、一朝一夕には変わらないのは厳然たる事実だ。
『デート』は「恋愛不適合」な二人が「恋愛できるのか」が主題である。
巧が高等遊民でいる事情は説明されているが、彼が働くためにはどうしたらいいかという答えを社会に求めてはいない。
依子も不器用であるが職場では能力を発揮できているし、恋愛においても、理屈っぽい女を避ける男ばかりで困る!こんな世の中はおかしい!というように他者の変革を求める向きはあまりない。これまで恋愛できなかったのも、あくまで依子が主体的に好きになる相手が見つからなかったからだ、ということがバレンタイン回などで示される。
(なお二人ともお見合いパーティーではそれなりに他者に冷遇されるが、二人も負けず劣らずの厳しさで他者をジャッジしている。)
恋愛が成り立つかという命題は二人の間にあり、二人で決着をつけられるものだ。
『問題のあるレストラン』が挑んだのは理不尽な社会の構造だ。
戦う女達の苦悩はリアルで共感を呼ぶが、リアルであろうとすればするほど問題の根深さが浮き彫りになっていく。
問題が複雑すぎる。スッキリした結末を描かない方がかえって誠実なんじゃないかとすら思う。
さらに、上記の違いから生じる差でもあるのだが、主に登場人物の心情が『デート』は後半に向けて分かりやすくなり、『問レス』は後半に向けて分かりにくくなる。
『デート』の二人は月9らしからぬ恋愛不適合な変わり者として登場した。
それが話が進みお互いが対話を重ねるにつれ、不器用な女と優しすぎる男といった親近感のある姿でもって描かれていく。
一方『問レス』は女が被る理不尽あるあるで共感を集めた前半から、後半はまだまだ議論の足りていない「男社会の中の男が抱える問題」にも光を当てて視点を分散させているため、理解の難度を増すつくりになっていた。
また、社会をどう生き抜くかということへの答えは千佳の「自分で自分をつくる」というセリフなのだが、これも「社会がクソでも自分をつくることだけは可能なんだ!」と捉えるか「そんなのわかってるけど他に答えはくれないんだふーん…」と感じるかという差が発生しただろう。
全編を通せば甲乙つけがたい
以上のようにテーマと構造の面で終盤の『問レス』はいささか不利であると思う。
千佳のキャラクターの変化や二人のセーラージュピターの戦いと和解など(理不尽あるあるのピーク)の盛り上がりの大きさを考えれば、2つの作品は甲乙つけがたいものだったと感じる。
これらが月曜と木曜、という配置も一週間を楽しく過ごすのにちょうどよかった。
充実したフィクションは日々のノンフィクションを充実させる。
『問題のあるレストラン』最終回感想 なぜスプーンは落とされたのか
今クール観てきたドラマのひとつ、『問題のあるレストラン』が終了した。
言うまでもなく、裁判とビストロ閉店の経緯への説明がなく、雨木社長との対立関係があっさり終了していることがモヤモヤを生む主な要因になっているのだが、まさにそこが技ありだったように思うのだ。
9話までに描かれたもの
裁判は雨木を救わない
大切なことはみんな千佳が教えてくれた
人に優しくすると、自分に優しくなれます。人のことがわかると、自分のことがわかります。人の笑顔が好きになると、自分も笑顔になります。自分は自分でつくるの。
雨木社長が変わらないのは、彼が誰とも向き合っていないからだ。
他人は彼のすべてをつくることができない。
人には自らの行動でしかつくられない部分がある。
「セクハラってなに?」と尋ねるような幼い息子に雨木は「俺に代わって社会に復讐してくれ」と呪いのような言葉をかける。
歪んだ世界に今まさに飲まれようとしている少年よ…逃げて…!と思ったところで千佳が彼に歩み寄り、上記の台詞を告げるのだ。
ここで、千佳が弟の手を引き「もしかして連れて行っちゃうのかな?」と一瞬思わせながら、そうはしない、というのが秀逸だった。
私はあなたに何もしてあげられません、と彼女ははっきりと言うのだ。
女が守ったり癒したり許したりしなくても、彼には、男には、人には、自分で自分をつくる力がある。
社会や家族がどんな呪いをかけても変えることのできない部分が誰にもあるはずだ。
そんな希望を託すようなシーンだった。
誰かが他の誰かを完全に変えることはできない、という事実は、時に断絶を生み、時に希望ともなる。
その両方を雨木親子が表していた。
父の呪いを蹴散らす術を得るという形で、千佳の復讐は成された。
それはかつて父の写真に突き刺した包丁よりも、はるかに力強い。
屋上のレストランは何故閉店したのか
エンタメ感を取り戻す後半
2皿のメインに満たされながらも、その重たさに(3人娘とともに)呆然としていると、最後のお楽しみとばかりに女たちが再び楽しげに動き出すシーンが次々と運ばれてくる。
ビストロ最後の光景、真夜中の恋バナ、そして300日後の海辺。
物語が終わりと始まりを告げる。
和やかな後半の端々にも意味ありげな要素が潜む。
- プロポーズを巡りすれ違ったカップル。相手の思惑を勝手に想定せず、会話しようということか。
- 戦いを経てもなお、恋バナで盛り上がり、門司達と海辺でレストランバトルを再開する女達。「戦う女は男を排除する怖いもの」ではない。一緒に幸せに向かっていきたいのだ。
- たま子が発した「(いつか自分と合う人に出会うのを)あきらめない」という台詞は、「(男達と向き合い、共に生きることを)あきらめない」という意味合いにも聞こえた。
そんなことを考えながら最後まで個性的な7人を眺め、最終話が終了した。
その他雑感
- 冒頭のみんなの夢。たま子に声をかけられる場所は、彼女たちが「自分には行けない」と強く意識していた場所。コンプレックスの素?(川奈=女一人で歩く都会の裏道、三千院=古き良き家庭像、ハイジ=女湯、新田=ボルダリング=頭だけでは通用しない、体も使って飛び込む場所=社会や恋愛?)
- きゃりーぱみゅぱみゅ登場シーンのカップスは、レストランの楽しさを演出するとともに、「暗黙のルールや場の空気に従ってみんなが動く世界」を象徴。内輪には楽しく、外野にはいくらか不気味に映ることが表れている。
- たま子と門司がスプーンのクレームについて話す場面の「たった一人のクレームで?」「他の人は何も言ってないんだろ」という台詞がやっぱり企業内のセクハラとリンクするような。
- 週刊誌の『二代目社長の傲慢』という見出しへの雨木社長の呟き「俺は親父に何もしてもらってねえよ」という台詞。ほんとに何も教えてもらえなかったんだろう。
- 周太郎(雨木息子)かわいい。
- ビストロの黒字840円…300日後に海行ってる場合なんだろうか。でもここで大勝利ってのも違うか。
- 「知り合いが相続税払えないって言ってて…」三千院さんやっぱ実家はそれなりにいいとこなのか。
- 海行きてー。
おわりに
9話を終えた時点で説明しなきゃいけない事柄とまだ語られていないメッセージがあり、詰め切れるのか心配だったが、思いっきり説明の方を省いたことで最後までメッセージ性の強いドラマになっていると感じた。
最終話のメッセージを入れたことで、ジェンダーや差別を題材とするときに生じやすい偏りがだいぶ少ないものになったのでは。
1話あたりの「男が総じてクズ状態」が辛くて視聴を諦めた人(特に男性)にこそ観てほしいな、と思った。
けれどどうだろう。
これが男の生きづらさをテーマにした物語で、「女がみんな男を苦しめるダメ人間」という演出で始まるストーリーだったら。
私はここまで目を逸らさずに楽しむことができただろうか。
少し、自信がない。