こりくつ手帖

なにかというとすぐに例え話をはじめる20th century girl

子育てに苦労ばかり求めるのは社畜を養成する心理と同じ病だ

今度はベビーシッター

道端アンジェリカさんの育児に関する発言が炎上、という話題を目にした。(http://m.huffpost.com/jp/entry/6944656
アンジェリカさんの発言の真意(の推察)については後述するとして、話題の核は「子育ての負担を減らすこと、楽をすることが何故いつも批判されるのか」ということで、アンジェリカさん批判へのカウンターの多くはここを疑問視したものだ。
 
ベビーカーやハーネス、子連れでの外出など、子育てを助ける道具やサービスをめぐっていちいち同じような意見の応酬があるのは不毛極まりない。
不毛ながらも 毎回議論が盛り上がってしまうのは、やはり子育て中の家庭が日頃から育児に対する風当たりの強さや抑圧を実感しているからではないか。
 
一方で、親たちを助ける、いわば楽をさせるためのアイデアをことごとく批判する人達の主たる言い分は「子育てをしっかりまっとうすべき」というものだろう。
それは間違ってはいないが、彼らの繰り出すべき論には決定的に欠けているものがあり、それが子育て当事者をしばしば追い詰めている気がしてならない。
それは、子育てが長期的に取り組む仕事であり、何よりも持続可能性を重視しなければ成り立たないということだ。
 

批判で追い詰められるのは多くの真面目な親たち

ベビーシッター発言を批判した多くの人が前提としているのは「親が自分の楽しみや休息を求めて楽をすることは子育てをおろそかにしようとしているからだ」という考え方だ。
確かに毎晩のように子供を放っておいたり連れ回したりして大人の遊びに付き合わせる、というなら問題があるだろうし、おそらくそうした「極端に自己中心的な親」のイメージがあるために批判をするのだと思う。
 
しかし実際に子を持つ親の多くは、子供への責任感が強く、真面目にやっているからこそたまには息抜きしたいと考える人達だろう。
私も病院や子供の遊び場で出会う母親達や子持ちになった友人を見て、「この人こんなに適当で大丈夫かな」と感じることはとても少なく、むしろ「そこまで真面目に考えてるんだな」と思うことが多々ある。
育児雑誌やネットの質問板などを見ても、子供の食事や遊び、病気、しつけ、言動など様々な事柄に対する多くの親の不安感や問題意識が表れている。
 
こうした真面目な親達は外部の意見にも敏感なので、今回のような子育てネタの炎上に対してはさらなる抑圧を感じてしまうことだろう。
批判に対して「母親に我慢や苦労ばかり求めるな」と反論する女性は多いが、彼女らは「子育ては辛いからとにかく楽させろ!大変なことは何もしたくない!」と言っているのではなく、「子供と生活していれば自然と我慢や苦労が発生するし、それを日々こなしているからこそ、これ以上のものを外野から押し付けられたらやっていられない」と参っているのだと思う。
 
このように述べても、「実際に非常識な子持ちと遭遇したことがある」「現代は虐待の件数も増えている」などを根拠に批判をやめない人はいるだろう。
しかしその批判を非常識な親とやらが耳にしたとして、わが身を振り返り改めるようなことが果たしてどのくらいあるだろうか。
また、ここで指摘する間でもないが、虐待の通報件数が増えている一因は「虐待という問題が認知され通報の敷居が下がったこと」であるし、実際に虐待や育児放棄に至る家庭を「子育ては楽せずしっかりしろ」なんて外野の高説で救えると思っているなら相当呑気だ。
 
「子育ての手を抜くな」という世間からの圧力は、元々真面目にやっている人をさらに追い詰めること以外に何か成果を生むのだろうか。
もし単に「とにかく他人が楽したり得したりするのが気に食わない」という荒んだ心境で文句を言っているのだとしたら、その人は他人に口出ししている場合ではないくらいに自分の生活に綻びがあるはずなのでどうかそちらを気にしてほしい。
 

子育て当事者と批判意見との意識のズレ

「子育てにおける楽」を批判する側とそれに反論する側では意識に隔たりがある。
 
子育ての当事者にしてみれば、「子供より自分が大事だから楽したい」のではなく、「子供にとって自分が大事だから楽したい」のだ。
子育てで一番避けなければならないのは、子供を危険に晒すことだ。
つまり親が肉体的に疲弊して倒れたり、精神的にゆとりがなくなり子供を攻撃したり受け入れられなくなったりすることである。
親が自分を犠牲にして頑張る姿ばかりを要求するのは、こうした危険を避ける配慮が欠けている。
 
では子育て批判をする人の全てが世間の親にプレッシャーを与える目的で発言しているかというと、そうでもないような気がする。
現在当事者でない人は、子育てが毎日の課題としてのしかかっているわけではないので、長期的に見て無理のないやり方をとろうとか、できることは効率化しようという発想があまり浮かばない。
そういう人が子育ての話題を振られると、いわば時々孫を預かって張り切る祖父母目線で「常に子供優先で全力で向き合うことが子供のためになるはずだ」と考えて意見してしまう傾向があると思う。
このあたりのズレが無益な論争を呼ぶ要因になっているように思えてならない。
 

世間に蔓延する社畜根性=苦労至上主義

子育てに限らず、楽をしたがることは不真面目な証拠、という論調はどんなトピックにおいてもよくある。
しかし、物事を真面目に考えるほど、楽という名の効率化を求めるのは必然ではないか。
短期的な勝負ならともかく、長期的に取り組む必要のあることに関して言うなら、楽をしないでひたすら己を追い詰めて突っ走るべき、というほうがむしろ余程ナメた態度と言っていい。
大事な仕事であればあるほど、突っ走った末にコケる損害を考えないのは不誠実である。
その不誠実さを直視せず「やる気があるなら楽しようなどと考えないはずだ」というのはブラック企業体質あるいは昭和企業体質が染みついた思想で、どちらにしても社畜根性丸出しである。
 
そう、家庭でも企業でも結局は社畜根性に基づいた物言いが多くの人を苦しめているのではないか。
「親、特に母親は自己犠牲をいとわず子育てに取り組むべき」というのは、「社会人、特に男性は私生活や家庭を犠牲にしてでも仕事を優先すべき」という発想と地続きに見える。
 
そして社畜根性の正体とは、苦労至上主義である。
社会人でも主婦でも高校球児でもアイドルでも、「余裕をもって取り組んでいます」という人と、「いつも全力です、苦労しています」という人では後者が好感を持たれる傾向がある。
仕事ができるか、とか、憧れるか、といったベクトルで尋ねれば余裕を持った人が評価されることもある。
ただ最終的に好きか嫌いかといった感情レベルでは、やはり楽や余裕を作らず苦労を重ねる人を「より頑張っている」と捉えて肯定する向きが強い。
 
苦労を乗り越えることで価値が生まれることもある。
それは否定しない。
ただ、何かを真剣にやっているということが、どれだけ苦労しているかでしか測れないことは問題だと思う。
 

余裕は誇れないものなのか

苦労至上主義は国民病のようなものであり、脱却が難しい。
多くの人がそれを内面化してしまっているからだ。
 
子育てに話を戻せば、当の親達自身が「楽をしようとしては子供のためにならない」という思想を刷り込まれていて、毎日の継続がしんどくなるような子育てを目指してしまうことが多い。
子育てを難なくこなせてしまうと、自分はあまり頑張っていないような気がして自己肯定感が得られない。
 
 必要に応じて楽をすることは、仕事を自分に合ったものにカスタマイズする工夫であり、そこのところをもっと皆で評価しあっていいはずだ。
「私、けっこう楽に楽しくやれてます!」と堂々と言えばいいし、周りも「工夫してよくやってる!」と褒めればいい。
しかし現実には「子供より自分を優先しているのでは」「もっと苦労している人もいるのに」などと言われる。
苦労自慢にはそこそこ市民権があるのに、余裕自慢は批判ややっかみを呼びやすく、なかなかハードルが高い。
そもそも自慢するという行為のハードルが高い。
基本、謙遜が美徳なのだ。
苦労した代わりに社会に認めていただく、というのがこの国での自己肯定のあり方なのかもしれない。
 

成果がはっきりしないことほど苦労で評価されがち

これからも私達は自己肯定感を得るために非効率的な苦労合戦を続けるしかないのか。

お互いの余裕を評価しあうなんて性に合わないことなのだろうか。

いや、そんなことはないんじゃないか。

学生時代を思い出してほしい。

皆いかに勉強していないかを競うように自慢していたではないか。

テスト前になると「やばいわー全然勉強してないわー」と言い合ったあの頃の気持ちを忘れたのか。

誰もが自分の余裕を演出し、必死でいきがっていた。

今こそ本当に余裕を誇るべき時なのだ。いきれ。そして生きろ。

 

と、ここまで考えて気づくのは、学生時代のほうが余程成果主義だったのではないかということだ。

「社会に出たら結果が全てだ。頑張りましたなんてのが通用するのは学生のうちだけだ」などとよく言われるが、これって逆なんじゃないかと実際社会に出て思うようになった。

試験の成果は容赦なく数字で示されるが、勉強方法やどれだけ根を詰めたかという過程に評価が下ることはない。

勉強する場所は自分の部屋でも図書館でもカフェでもいいし、毎朝早起きして1時間ずつ勉強しようが、試験前に徹夜しようが自由だ。

試験の点数というはっきりした評価軸があるからこそ、過程にある苦労をアピールする意味があまりなかった。それゆえに余裕アピールすら可能だったのである。

 

それに比べると、学校の外の社会では成果がそこまで明確な数字にならない。

というか、勉強ほど努力が成果にすんなり繋がらない。

そこで人を評価しようとすると、過程に目がいく。

どれだけ頑張っているかを評価基準に加えたくなってしまう。

するとだんだん努力の仕方に注文が付けられるようになる。

しまいには「デキる社会人は始業時間の30分前には席についている」とかわけのわからないことを言い出す人間が現れるのだ。

 

子育てという仕事ほど成果が測りにくいものはない。

何を成果と呼んでいいのか、どこまでが自分の努力の結果なのかがはっきりしない。

どれだけ頑張ったかで評価されやすい、即ち苦労至上主義に陥りやすい仕事なのだ。

 

自分と他人の余裕を肯定できるようになりたい

問題の根が深すぎてすぐにどうこうできるものではないが、とりあえず私自身がこうした空気に飲まれないように実施している考え方を書いておく。

  1. 自分が楽しく過ごせていることを成果と捉える。家族や友達と「楽しかったね」などと口にしあう。
  2. できるときには人を助ける。

書いてみたらすごく普通のことだったが、普通が一番難しいって誰かが言ってたような気がする。

2番目は何かというと、自分の持っている余裕を人に還元するつもりの行動だ。

自分より暇そうな人、楽そうな人を見るとイラッとしてしまうのが人情だが、「そういう余裕が巡り巡って自分や誰かを助けてくれる」と思うと黒い感情が治まる。

そう思うためには人の余裕が人を助けるという実感がないと難しいので、自分で実例を作っていけばいいのかなと思っている。

そんな感じで苦労至上主義からの脱却を図ってはいるが、私は会社員時代に常態化した長時間労働に喘ぎ、5時前に帰り支度を始める受付の方々を横目に見ながら「爆発しろ…」と思念を送っていた狭量な人間なので、まだまだ修行中である。

 

アンジェリカ発言の真意

さて、冒頭で触れたアンジェリカさんの発言についてだが、実際の映像を見ないで触れるのもなんなので、見てみた。

「週に1度はベビーシッターに子供を預けて夫とディナーをしたい」という発言の真意は、子供が生まれても男女の関係でありたい、実際はそうでなくなってしまう例が多いことに不安を覚える、というものだった。

 こちらはこちらで相当根が深い問題で、レストランでディナーをするのが男女であるということなのかとか、妻が女じゃなくて母になってしまったとかいうよく聞くフレーズへの違和感とか、いろいろな思いが浮かんできたのだがこれも長くなりそうなのでまた別の機会に。