こりくつ手帖

なにかというとすぐに例え話をはじめる20th century girl

『未来のイノベーターはどう育つのか』を読んだ

教育に関するこんな本を読んだ。


本書でいうイノベーターとは、問題解決のためにこれまでなかった新しい価値を生み出せる人のことだ。

著者がアメリカの若いイノベーター達に子供時代の過ごし方から大学などの高等教育機関で得た経験などについてインタビューを行い、彼らのイノベーター精神を育んだのはどんな事柄か、これから子供達を育てるのに親や教育者は何を重んじたらよいか、ということが主に本書には書かれている。


参考に内容紹介を抜粋する。
好奇心とチャレンジ精神に満ち、自分の頭で考え、枠にとらわれず新しいものを創り出す――。あらゆる分野でますます求められるイノベーション能力の謎に迫る、親とビジネスパーソンのための教育書。 
イノベーターの資質とは何か。なぜそれが今後ますます重要になるのか。それはどのように芽生え、どうすれば育てられるのか。
エンジニア、起業家、デザイナー、社会起業家、彼らの両親、グーグルやアップルなど独創的な企業の人材開発担当者、 MITやスタンフォードの教育者……大勢の人に取材を重ね、家庭環境から大学教育、企業文化まで俯瞰して見えてきた 「イノベーション能力」の源泉とは? 

こう見ると起業家を育てるための本のようだが、別に起業家にならなくてもイノベーター精神はあったほうが面白く生きられると思うので多くの人にとって無関係ではないと思う。
あらゆる人は事業とか仕事とか以前に自分の生き方を自分でコーディネートする必要があり「好奇心とチャレンジ精神に満ち、自分の頭で考え、枠にとらわれず新しいものを創り出す」力はそれに欠かせないからだ。
そんなことを考えて、幼児の子供を持つ親として、またこれから続く人生をデザインしなければならないミソジスト(三十路の女)としてこの本を読んだ。

学校の外の世界をどう作るか

本書ではアメリカの学校教育の問題点がしばしば指摘されているのだが、それが日本で言われている問題と案外似たようなものだなと感じた。
詰め込み教育、知識偏重で応用力が伸ばせない、生徒の興味関心に応じてカリキュラムを組めるような学校はほとんどない、など。
海外で教育を受けたことがない私はアメリカの学校風景というと「トム、君はこの問題についてどう考えているんだい?」みたいなアメリカンな会話が交わされていて生徒の意見や自主性を尊重する風土があるのかと勝手にイメージしていたが、偏見だったようだ。

多くのイノベーター達も、自分に大きな影響を与えたものは学校の中にはなかった、あるいは学校の中でも例外的な教えをしている教師に偶然出会えたことが最も自分に影響している、と語っている。
イノベーション能力を育てるのに成果を上げている大学の取り組みも紹介されているが、まだ一般的なものではないようだ。
学校の授業ではなく、その枠外での取り組みや気づきに熱中することが彼らのイノベーター精神を養ったことを実例をもって示し、親や教師は枠にはめ込もうとするあまりその意欲を失わせないことが重要だと述べられている。

この部分について、学校の仕組みをもっと変えていく必要があるという結論に達しやすい(本書にはそのための提案や課題も書かれている)が、もう一つの問題は学校の外で過ごす時間と場所をどう与えるか、ではないだろうか。

そもそも子供の意欲や発想の方向は本来とても多様なので、それを万全にサポートできる学校をつくるのは非常に難しい。枠を飛び越える子は必ずいる。
仮に万全な学校を作れたとしてもやはり学校の外の世界の充実が必要なのは変わらない。
学校だけを子供の居場所にしてしまうと、生徒間のヒエラルキーの固定化(いわゆるスクールカースト)が強固になったり、いじめやトラブルに遭った子供の居場所がなくなるという問題もあるからだ。

学校では基本的な学びができて、自分のやりたいことを見つけたり熱中したりできるどこか別の場所があり、そこには学校と異なる人間関係もある、というのが良い状態なのかなと思う。
この別の場所として現実的には習い事が選ばれることが多いと思うのだけど、習い事のネックはまず費用がかかり家庭の経済状況によってはそこへ行けない子供がいることだ。
そして多くの習い事で時間を埋めてしまうのは学校の詰め込み教育に多くの時間を割くのとあまり変わらないし、何かを追求したいとかソリューションを探りたいみたいな欲求に応えるという性質はあまりない。
高額な費用がかからず、時間に追われず、学校以外の世界に触れられて…というような街をぶらついていたら出会ったじいさんとトークをキメて思わぬ友情が芽生え人生を教わる、みたいなニューシネマパラダイスな場所を用意するのは難しい。
そういう場所づくり自体に今イノベーターが求められていそうである。
親の立場で現実的に考えるととりあえず場所や物事に自分で出会いに行ける時間を作ってやるのが先決の課題かなと思う。

信じるって難しい

とはいえ時間を作ってやっても子供はダラダラとスマホ見てたりゲームしたりマンガ読んだりしてて、何かに出会うみたいな理想的な効果はめったに目に見えてこないのかも知れない。
余裕を作って子供に自由を与えるという方法は効果がたちどころに見えるものではないので、見ている方は余裕どころか焦りを感じる。(ゆとり教育が否定されたのもこれが大きそう。)
何かさせておかないとまずいから塾でも入れよう、となるのがリアルな感覚だと思う。

本書には
子育てで究極的に必要なのは信じることだ。まず親としての自分の直感、判断、価値観を信じること。また子供を信じること。子供にはユニークな感性と才能があり、学びたい、作りたいといった欲求があり、自分の潜在性を実現したいという内的なエネルギーがあることを信じるべきだ。
とある。
言われればその通りなのだが、そういうシンプルでもっともなことが一番難しい。
イノベーターの親達も、どこまで子供の好きにさせるか、学校の課題との兼ね合い、自由とルールを守ることとのバランスなどいろいろなことに悩んできているようだ。
それに人は何かを頑張ろうとするとつい何かをやってしまいたくなる。
子供のことを考えると、信じてじっと見守るより善意で余計なことをする方が簡単なのだと思う。

そこでもう一つ大切なこととして挙げられているのが「自分の親としての権威を見直すこと」、つまり親がいちばん物事を知っていると思わないことである。
何かをしてやりたくなるのは相手より自分の方が道理がわかっているという前提に基づいているからで、その思い込みをまずやめることで子供自身の意志に委ねることができるとのこと。
確かに。
老いては子に従えって言うし。生んだ時点で子より老いてるし。
子供の立場として自分の親を見てみても、世代の違いで理解されない部分はあるし、何より別の人間なので同じ解法がそのまま使えるわけではないと実感する。

子供のことは子供自身がよくわかっていると認めながら、自分の直感、判断、価値観を信じる…ってやはりなかなか難しそうなので経験しながらバランスをとっていくしかない。

社会とつながるという言葉の本当の意味

本書に登場する多くのイノベーター達のモチベーションの元になっているのは身近な社会の問題点との遭遇である。
例えば貧困地区に暮らす子供達は学校生活に意欲を持てる状態になく、結果成長しても貧困から抜け出せないことにショックを受けたイノベーターは、彼らが熱中できるアート活動を立ち上げるのに尽力した。

イノベーターを育てるには解決すべき課題に出会わせる必要があるのだ。
それには社会を見ることが必要で、具体的にはニュースに関心を持たせるとか、いろいろな人と関わらせるとか、子供の世界を広げることを意識している人もいるだろう。
だが必要なのはそれだけだろうか。

毎日ニュースをチェックして、仕事で多くの人を相手にしている大人は大勢いるが、そこに解決すべき課題を見出せている人ばかりではない。
どちらかというと悲惨な事件や社会問題はなるべく自分とは遠いところにあったほうが嬉しい、という空気を感じる。
事件に巻き込まれた被害者、事件を起こした加害者を見て「こういう事件に関わるのはやっぱり◯◯だからだ。◯◯はダメなやつらだ」と言うのはもはや定型文だ。◯◯に職業、学歴、世代、人種、家庭環境などあらゆる要素を入れて自分との差別化ができる便利なシステムである。
貧困、労働環境、結婚や出産や育児など、うまくいかない事情を抱えた人がいても、「本人の努力不足」「計画性がない」と自己責任論を投げつけられがちで、社会構造に問題があるという指摘もそれは甘えだと切り捨てられる。
問題を抱える人を見てもそれを全て本人の責任と考えれば、自分を含む他者が解決すべきことはない、何もしなくていいという理由ができる。
いくら情報を眺めていても自分の内側の何かが変わることはない。
自分と社会はそこで分断される。

自己責任論は一見「不徳は全て私の致すところ」みたいなストイックな感じがあるし、実際自己責任を主張することで自分はしっかり自己を律して生きているのだという空気を演出するような人もいる。
けれど問題の本質から目を背けて思考停止する危険もあって、そうなるとむしろ自分を甘やかすための理論武装でしかない。
子供の教育に用いる場合もそうで、「自分のために努力しろ、努力しないと将来良くない結果につながる、それは自分の責任だ」と子供を律するために言ったことが「満足な結果を得ていない人間は努力が足りないからそうなった」という発想を子供に植え付ける場合がある。
努力も責任感も大切だが、それを自己責任論と結び付けて説くことには子供と社会を分断する恐れがある。

社会とつながる、という言い方があるが、それは会社に所属したり大きな仕事をしたりすることだけを指すのではなくて、自分の目に映ることと自分を遮断しないことを指していてほしい。
必ずしも特別なものを見る必要はない。
自分で見て考えたことは特別になるからだ。

自分を主語にする

本書の全体を通して、子供を伸ばすのは子供自身の感情や意欲であり、親や教育者が考えるのはそれを追究させるサポートについてであることが読み取れる。
主導ではなくてサポートだ。
それでも親も人格ある個人だから「あれをしたらいいのでは」「こうしたらためになるのでは」と自分の考えが生まれてくる。
そして気付いたら主導や誘導、押し付けをしてしまっていた…となりそうだ。
子供にとって押し付けがましくないサポーターになるには、「あなたはこれをしたほうがいいよ」と言うだけではなくて「私はこれをしたほうがいいといいと思って実行している」と言えることを作り、そちらにエネルギーを分散させることがひとつの方法かなと思う。
あるいは「私はこれがいいと思うんだけどあなたはどうか」という姿勢で提案をすること。
いきなり「あなたはこう思うよね」と言うのは言われた人間への圧力になる。
自分を主語にすることは大切だ。
親も自分の人生を生きるっていうのはそういうことなんだと思う。

おわりに

本書は教育に必要な取り組みや姿勢についても書かれているが、タイトルが『どう育てるのか』ではなく『どう育つのか』であるように、ボリュームとしてはイノベーター達の育ってきた環境がどんなものだったかという描写に多くを割いているため、ドキュメンタリーとして読むのがしっくりくる。
パワフルなイノベーター達の姿が「私も自分を信じよう」と思わせてくれる。

本の内容から想起したことをさも有効な子育ての手法であるかのように語ってしまったが、一人の親業初心者が頭で考えたことに過ぎないので笑ってご容赦いただきたい。
何かの参考にするのであれば、それはもう、自己責任で。