こりくつ手帖

なにかというとすぐに例え話をはじめる20th century girl

兼業主婦と専業主婦のワークライフバランス

 

ワークライフバランスのイメージ

ワークライフバランスについて、このところ関心を持ち続けている。
契機は前職在職中にワークとライフがまったくバランスしていない兼業主婦生活を送ったことだ。その後妊娠、思うところあって退職、専業主婦となった今。主婦生活の充実と仕事の再開など将来の構想のためにも、ワークライフバランスという観点は欠かせないと感じている。
 
ワークライフバランスという言葉が世間に浸透してきたのはすごくいいことだが、この言葉の一般的な捉えられ方に対しては少し違和感を覚え始めた。
 
一般的なイメージとは、おそらくこんな感じだと思う。
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(※カラーバーの面積は時間、手間に加え疲労感や充実感など本人の実感を加味したもの。)
 
仕事(賃金労働)=ワークをする時間とそれ以外の生活=ライフの時間のバランスをうまくとろうという認識があるが、こうした区分だけでは少しざっくりしていて実感とズレてくる。仕事か家庭かどちらかに大きく偏っていても満足できている人もいれば、どちらにも同じくらい時間を割いているのになんだかしんどい、という人もいる。
 
無論、今の社会では仕事時間とプライベート時間のアンバランスが最大の課題であるから、従来の意味を否定したいわけではない。それに、まずはワークライフバランスという概念の浸透と実行が第一なので、あまり言葉を複雑にして広まりにくくするつもりもない。
これから述べる私が考えた定義でこそこの語は使われるべきだ、というのは本エントリの趣旨ではない。ここで違和感を指摘するのは、上記のようなおおまかなイメージでは見落とされる課題があり、それらが実に多くの人を悩ませている気がするからだ。
 

ワークライフバランスへの二つの違和感

私の中のワークとライフの定義はこれだ。
 
ワーク=やるべきこと。誰か(自分でも可)のために必要なこと。
ライフ=やりたいこと。自分の心を動かすこと。自分を肯定する気持ちを持つこと。
 
つまりワークは金銭活動か否かを問わない。そしてライフは自分がやりたいこと、好きなことならわりとなんでも当てはまる。小さいこだわりとか、しょうもない娯楽でもいい。自分が本当に好きなら。
仕事に使命感をもっていたり、家事に楽しみを見いだしたり、好きなことを勉強したり、ひとつの行動の中にワークとライフが混在することも当然ある。
そしてどちらも本人が「やるべし」「やりたい」と思うことが基準なので、スタンダードはないし、他人が押し付けてはいけないし、仮に同じ環境で同じことをしていてもワークライフバランスの実感は人により変わってくる。
 
この前提でもって捉えると、従来のワークライフバランス像に違和感が出てくる。
ひとつめの違和感のもとは、家庭内での無賃金労働をワークとみなせていないことだ。

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個人の生活は自動的に維持されるものではなく、その運営には無賃金労働が必要になる。家事や育児の中には自分の生活をエンジョイするというライフ的な要素の他に、やらなくてはならない作業、考慮すべき事柄などがあり、これはワークである。

こうすると、仕事とプライベートを半々の面積で描いた上の図においてもワークがかなりライフを圧迫して見える。

長時間労働が根付いた実際の社会生活においては言わずもがなで、「ワークライフバランスっていうよりワークワークバランスだよ…」という嘆きも散見される。

そこでもうひとつ、仕事におけるライフの存在も可視化しておかなければならない。

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なんだかがんばれそうな図になってきた。

このライフはたとえば、やりがいや自己肯定感、仕事の面白みや同僚とのつながりなどが当てはまる。(家庭内のライフも同様だ。)

「好きなことを仕事にする」というのは甘い考えであるかのように言われるが、ワークライフバランスの実現という点に絞れば非常に合理的なことがわかる。

もちろん、仕事は外貨獲得のためと割り切り、家事などを極力省力化して相対的にライフを増やす、というのもありだ。

どちらもそこそこにというのも当然あり、ハードな仕事に燃えるのもあり。

要はなんでもありだ、自分の人生はこの世にひとつなんだから。

 

このように、仕事にもプライベートにも(もちろんその他のあらゆる場面にも)ワークとライフが混在しており各自が自分に合わせたバランスを追求するという前提で議論がされてほしいのだが、実際はそのあたりを蔑ろにされて誰かが辛い思いをするケースが多い。

 

仕事と家庭の両立における認識のズレ

最たる例が仕事と家庭の両立をめぐる議論だ。
言うまでもなく、日本には長時間労働文化と仕事最優先主義、お客様第一主義(労働者はギリギリまで尽くす)にどっぷりなので、簡単にこんな具合になる。
 

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家庭に注げる時間が劇的に減っても、家庭のワークは劇的には減らない。

そのことが家庭のライフを圧迫する。具体的には、

・自分の時間や家族との時間が取れないことによる充足感の低下

・家事や育児の負担感の増大、うまくこなせないことによる自己肯定感の喪失

・ベランダの鉢植えをすべて枯らし、それを棄てる気力すらなく、窓の外を見て心がすさむ(以前の私)

などがおこる。

 

それでも仕事が充実していればなんとかなる、 好きでやってる仕事じゃないか。

そんな励ましはあらゆる人に果たして有効だろうか。

負の感情はしばしば連鎖する。

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やりがいや自己肯定感という仕事のライフは、私生活がすさんでくるとつられてしぼみ始めることが多い。「こんなにボロボロになってまで、自分は何をしてるんだろう…?」と。

ライフは、たとえやっていることが同じでも心が元気じゃないと途端に輝きを失うのだ。そしてすべてを義務感だけでこなしているような感覚に陥ってしまう。こうなるとワークアンドワークである。きつい。

 

(ちなみに上図の”仕事”と”家庭・プライベート”を入れ替えると、時短でうまく仕事を回せない、マミートラックから抜けられない、といった悩みで毎日のやりがいが失われていく状態を表す図になる。)

 

働き方が硬直的な社会で、家庭内のワークを担う人の多くが悩んでいることは想像に難くない。けれど「時短や育休は周りにとって迷惑」「家庭を優先する人は仕事を甘くみている、仕事の第一線から降りている」といった見方をする人もいる。

そういうことを言う人は、悩める人が日々どんな生活をしていると思っているんだろうか。

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おそらく、こんな生活だと思っている。

なんだ、いけるんじゃん?みたいな。

好きでやってるんでしょ?みたいな。

もっと本気出せよ?みたいな…。

 

家庭内のワークを無視するな。

どんなに好きでやっている仕事にも大変なことはある。

好きでやっている家庭だって同じだ。

好きでやっている仕事は直接の顧客の役に立ち、間接的に社会全体を豊かにする。

好きでやっている家庭だって同じだ。

 

家庭内のワークの無視・軽視はいろんな人を軽く扱うことにつながる。

兼業主婦、ワーキングマザーを「仕事を最優先しない二級労働者」と扱う。
家庭のために周りと違う働き方をする男性を「仕事の競争から降りた」と決めつける。
独身者だってそれをプレッシャーに感じ、硬直した働き方に縛られて将来を描きにくくなる。
そして専業主婦・主夫を「これといったスキルも経験も積んでいない人たち」と見くびり、立場を尊重しないばかりか、労働市場への参入障壁を徒に高くしている。
 
…これ、誰得?
 
家庭内ワークの無視・軽視で社会が劇的にうまく回っているならともかく、現状は逆だろう。一刻も早くやめた方がいいと思う。
 
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さて、もう一度この図である。
 
このアンバランスな状態の解決策として、「家庭内のワーク=家事育児」ととらえ、それを外注すればいいじゃないか、という話が真っ先に出る。だがそれだけに解決を頼るのは不十分だ。
もちろん、保育園や家事サービスの利用や祖父母の協力を得ることは現実的な対応策であり、各家庭で必要に応じて選択することだ。外注で新たな雇用が生まれることも悪くない。
 
だが、家事育児は100%ワークでできているのではない。
その中にはライフがある。自分でつくった食事がおいしい。子供と過ごす時間が楽しい。そんな人それぞれのライフがある。だから、自分の手と他者の手をどこにどう振り分けるかは行為の中のワークとライフの配分を知っている本人の采配によらなければならない。それがバランスをとるということだ。
 
それを想像せず「仕事の妨げになることは誰かに預けてとにかく仕事に注力しろ」と要求するのはあまりに横暴である。仕事の量や働き方を見直して問題解決を図ることを放棄する怠慢と言ってもいい。
図の中の点線を左へ動かすこと、必要に応じて何度も左右に調整できるようにすることが急務だ。
 
家庭内のワークの軽視は、家庭内のライフの軽視にもつながっている気がしてならない。この問題を次項で詳述する。
 

専業主婦のワークライフバランス

図中の点線右側だけを取り出すと、専業主婦・主夫の生活を表すものになる。ワークとライフが一対だけになって、ぐっと自由がきくように見える。
しかし専業主婦をやってみて、この領域にもバランスを失わせるいくつかのトラップがあると実感する。現在の私はだいぶトラップをよけて自分で自分のバランスを取れるようになったと思うが、問題を可視化するためにこれまで感じたトラップを書き出してみる。
 
・ワーク軽視によりライフが奪われる
「家事や育児は誰にでもできる、大した能力が要らない」などと貶められる。能力が要らないのなら誰も家事や育児で悩まないはずだが実際にはそうではない。「誰にでもできる」とは「参入障壁が低い」というだけのことで、能力の有無とは話が別だ。高い参入障壁を越えることでしか能力を証明できないと考えることの方が問題ではないか。
家庭の運営には誰かのワークが不可欠であり、それを担うことだけを特別に揶揄されるいわれは無いのだが、「能力のいらないつまらない仕事」と言われれば自信は失われる。これはやりがい、自己肯定感というライフの剥奪だ。
 
・ライフの必要性が軽んじられる
他者によるライフの剥奪にはもうひとつ種類があって、それは「主婦なんだから自分の楽しみは諦めろ」という圧力である。子持ち主婦の場合は「優先すべき子供がいるのに」、そうでない場合は「子供がいなくて楽してるのに」と自分の楽しみを追い求めることが非難される。
 
前項と同様、非難する者の根底には「そんなにたいしたワークをしていないんだから」という意識があることが多い。
あるいは単に「そんな暇があったら働け」というやじりもある。空いた時間はすべてワークに回せというモーレツ思想である。ライフがあってワークがうまく回るという好循環の存在に意識が及んでいない。ライフを楽しんで、さあワークやるぞ!っていう気持ちは誰にでも必要だと思うのだけど。これは仕事(賃金労働)の場面でもよく見られる問題だ。
 
・ワークを補填しにくい
家庭内のワークの量は一定ではない。家庭の状況により、もっとワークを増やせる、増やしたいと思うことがある。そこで家庭の外、仕事のワークを手に入れようとしたとき、なかなか納得のいくものが見つからないケースがある。これまでの家庭内のワークがうまく評価されない、家庭内のワークと両立させる前提の仕事が限られていることが大きな原因となっている。
ママ起業ムーブメントは明らかにこうした問題を背景とした動きだ。
 
・ライフとワークのすり替え、押しつけ
 こちらは少し毛色が違って、家庭内ワークの重要性をいったん認めた上での圧力だ。
「家族のために自分のことは我慢しろ(ライフの否定)、そんな暇があったらこれをやるべきだ(ワークの押しつけ)、それが愛情だ(押しつけたワークをライフ化することの押しつけ)」
簡単に表すとこんな感じである。
押しつけられるワークの具体的な例を挙げれば、料理は手間暇かけたものしか認めない、幼稚園保育園のバッグなど子供の持ち物を手作りすることの強制などがある。
 
料理も手芸もそれ自体悪いことではない。でも強制してはダメだ。
はじめに定義したように、ワークは自分がやるべきと決めるものだからだ。自分の頭で、自分と家族の状況や適性、時間の余裕にあわせて判断しなくてはならない。
 
他人が押しつけたもので生活を埋めることは、バランスを司るハンドルを他人に預けることだ。そして他人はハンドルを最後まで握ってはくれない。
 
こういう押しつけは、行為を純粋に楽しんでいる人にとっても嫌なものだ。
私は料理と洋裁が趣味なので、上に挙げたことをやれと言われればやれる(その時の状況にはよるが)。
けれど、自分がそれをこなすことが、強制を負担に感じる人にとっての圧力になるように思えて純粋に楽しめなくなる。
「ほら、やってる人もいるよ?なんでやらないの?」みたいな言い方って、できる人もできない人も居心地が悪い。
またまた、誰得?という話だ。
 
こう言うとこんな反論が挙がるかもしれない。「家庭のワークを尊重しろと言いながら、ワークが大切だからやれと言ったら反発する。それって甘えなんじゃないの?」
 
ここで言いたいのは、必要なタスクを放棄していいということではない。充分な食事を出さない、子供に適切な持ち物を与えない、となると話は違う。
でもどの程度手間をかけるか、何に重点を置くかは本人にしか決められないだろう、と言いたいのだ。価値観、得意不得意、時間やお金の都合などは人によって違うのだから。
 
料理という同じ行為でも、ある人にはワーク3割ライフ7割の趣味的な行為になり、別の人はワーク10割のほぼ義務感のみに支えられた行為になる。それをどうこなすかを自分で決められなければ、ワークライフバランスは崩れ、余計な疲労が溜まるだけなのだ。
 
 
・トラップを図にすると…
 
 

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まとめるとこういう感じだ。

ライフが引っ込み、紫色のワークなのかよくわからないタスク=押しつけのワークがねじ込まれようとしている。

このタスク、兼業主婦であればまだ「仕事もあるのに無茶言うな!」と跳ねのける明確な材料があるのだが、専業主婦の場合「専業なんだからここまでやらなきゃダメかも…」と受け入れてしまいがちだ。剥奪された自己肯定感というライフのスペースにすっぽりはまってしまうのだ。

(兼業でも、家庭に時間を割けていない罪悪感からトラップにかかるという別の危険はありそうだ。)

 

専業主婦が家庭でのワークを頑張ることは大事だ。

けれど何をどうやるかは本人の主体性を尊重してほしい。

主体性が欠けると、自分が何をやっているのか自分で表現できなくなる。

それは、専業主婦生活を自分のキャリアとして築くことの妨げになる。

 

図中のワークの左上を見てほしい。

これまでの図にあった"仕事"エリアとの境目が、点線からトラ模様のテープに変わっている。前述したように、家庭から仕事への参入障壁はやたらきびしいものとされているが、家庭生活を主体的に語れることがこの障壁を越える助けとなるように思えるのだ。

 

専業主婦生活を続けていく人にとっても、自分のワークライフバランスをとっていくことが生活の充実につながるはずだ。トラップに負けず、自分のキャリアを邁進していこう。

 

上記に挙げたトラップは、家庭内のワークを軽視するものだけでなく、家庭内のライフの軽視を含んでいる(つまるところ、家庭という領分の軽視なのだが。)

最後に、家庭内のライフの軽視が招く罠について書きたい。

 

ライフは先延ばしにできるのか

子供を持ちながら仕事や趣味など自己実現的な活動をすることについて、「小さい子供がいるうちは諦めろ」という意見がある。子供を適切に預けたり、子供の負担にならない程度にと考慮した上で行動しても、そういう思慮があることを想像せず、一様に諦めろ我慢しろと言われることがある。
 だがそれとは対照的に、過干渉な親や、子供が育って手を離れた親には「自分の楽しみを持て、狭い世界にいるな」というご忠告が…
 
これって、学生のあいだは「遊びや異性のことなんかいいから勉強をしろ」と言っておいて、妙齢になると「結婚しないの?なんか趣味とかないの?」と言われるのと同じ構造だ。
 両者に共通する問題は、ライフを先延ばしにできるものと考えていることだ。
 
仕事には決めどきがあるから、子供のことに全力を注ぐ時期、ひたすら職務に打ち込む時期や入試直前の追い込みなんかはあるだろう。それも自分の判断でやることだが。
 
だが周囲が我慢を要求しているあいだに、ライフをつくるための感情や自尊心、気力、人との関係が失われてしまうことはないのだろうか。
先延ばしにした楽しみを、将来と今、同じ気持ちで楽しめるなんて誰が保証できるのだろう。
 
おそらく先延ばしが効かないと思われる例をひとつ挙げてみる。

 

こういう現象は本人も家族も報われない。

家庭内のライフを軽視する傾向はいろんな犠牲者を生んでいるのではないか。

 

まとめ

いくつかの図を描いてみて問題に感じたこと。
・仕事と家庭の間の点線が自由に動かなさすぎ
・ワークとライフの量や質を他人が決めすぎ
・ワークは簡単に減りにくく、ライフはすぐ削られる
 
これらがワークライフバランスを損なう原因ではないだろうか。
自分で自分を尊重することは第一の打開策だ。ワガママなんかではない。
より良いバランスをとることで自分と周りを幸せにしよう。
 
100%私のライフとして書かれた小理屈が、誰かの助けになる幸運を祈って。
 
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