こりくつ手帖

なにかというとすぐに例え話をはじめる20th century girl

20世紀のタキシード仮面と21世紀の『男がつらいよ』

タキシード仮面はつらいよ

夏特有のノスタルジーに駆られ、およそ20年振りに『美少女戦士セーラームーン』の原作コミックを読んだ。
小学生だった連載当時は気づかなかったが、今読むとこの作品は壮大すぎてすごい。女の子だって戦うわ!から始まり、大人になるとはどういうことか、戦いとは何か、自分の人生を歩むこととは、なぜ人は生まれ生きるのか…とどでかいテーマが次々に描かれていて唸ってしまう。
 
そして当時と今とでは私が注目するキャラクターも違う。
昔はメイン5人のセーラー戦士たちの個性にもっぱら夢中で、セーラームーンごっこで誰がどの役をやるかは重要な議題だった。
しかし今見ると、ちびうさとタキシード仮面、この2人がぶっちぎりで面白い。
ちびうさが象徴する「デフレの時代で親より立派になれない子供たち問題」については次回考察するとして、今回はタキシード仮面を通して描かれる"現代の男性に要求される理想像"について着目してみたい。
 
この作品はアニメと原作で設定の差異がいくつもあるが、タキシード仮面についても例外ではない。アニメでは初登場時既に大学生だが、原作では高校生。アニメではセーラームーンの変身につられて本人の意思と関係なくタキシード姿に変身するが、原作では自発的にタキシードに着替えている。
彼に以前から抱いていた「大学生でありながら中学生の主人公に手を出す不審者」というイメージは払拭され、代わりに「高校生でありながらタキシード姿で夜の麻布十番を徘徊する不審者」というイメージに更新された。
 
…本題はそこではない。
タキシード仮面が面白いのは、過剰とも言えるスペックの高さとそれに見合わぬ黒子ぶりである。
容姿が良く、頭も良く、身体能力も悪くなく、幼い頃に両親が事故死しているという設定にも関わらず港区のマンションに一人暮らしする経済力があり、セーラームーンを的確にサポートする冷静さと一途な愛を貫く情熱を持ち合わせ、おまけに未来から突然現れたムスメのちびうさの面倒を見るイクメンぶりもさらりと披露。
フルスペックとはこのことか。彼は原作者の武内直子氏が無邪気に理想を詰め込んで作った王子様だ。
 
けれど、ここまで完璧な装備の彼が戦いの先陣を切ることは決してない。
 
世界を救う力を持つのは常にセーラームーンで、その次に控える側近はセーラー戦士の女子達だ。
タキシード仮面は必要とあらばセーラームーンの援護射撃を(誰に戦闘を教わったわけでもないのに)きっちりこなすが、たまに敵にさらわれて洗脳されたりもするし、最終章となる5部ではなんと冒頭で死亡する。いくら少女漫画とはいえ、主人公の恋人ともなればもう少し活躍の機会、特に「男らしく」主人公をリードする場面がありそうなものだが、後半に行くほど彼は守られる立場であるように描かれていく。ちなみに新装版コミックでは、彼は一度も表紙に登場させてもらえない。
 
男として持てるものは全て持った最強の男であるタキシード仮面は、本作の主題が「戦う女の子」であるがために常に後方支援に回らされている。最強の男なのに、最強の戦士にはなれない。
 
それに比べて少年漫画の中の男たちはどうだろう。彼らは誰かのケアやフォローをする責務はなく、むしろされる側だ。常に戦いの最前線で活躍し、戦いに勝ち抜けば最強の戦士の称号を得ることができる。そしてそうした明確な目標があるからこそ闘志を燃やし続けられるのだろう。
 
タキシード仮面にはそうした戦いの舞台がないが、かといって弱い男、頼りないダメ男でいることは許されていない。最強の戦士であるセーラームーンを支えるのには生半可な男では相応しくないからだ。
強い男に与えられるはずの称号も競争機会もなく、ただ「セーラームーンを愛している」という思いだけをたたえてひたすら理想の男であることを崩さないタキシード仮面。この戦い、相当キツい!
 

なぜ現代の男がつらいのか

ここで話を『男がつらいよ〜絶望の時代の希望の男性学〜』という本に一旦移す。
これは男性学で著名な武蔵大学助教・田中俊之氏の著作であり、現代の男性が男性であるがゆえに直面する生きづらさを的確に説いたものである。
フェミニズムのメジャー感に対して、男性学というものがあまりに知られなさ過ぎていることには常々危機感を持っていた。この本の登場はそんな私の心を大いになだめてくれた。
 
本書は、男性たちに自身の思い込みやしがらみを自覚させると共に、現代社会の課題を浮き彫りにする指摘に満ちている。
たとえば、
・男性は「達成」か「逸脱」で男らしさを誇示しようとする
・「論破」はコミュニケーションではない
・高い自殺率や長時間労働に見舞われる日本男性
イクメンプレッシャー
・「社会人」という言葉は間違っている
・女性を世間のモノサシに合わせて選んでいると幸せが遠のく
など、あらゆる男性特有の病を解説してくれる男性版家庭の医学とも言えるのが本書だ。
 
中でも重要なのは
・時代の変化により、イクメンであることや家庭への関わり、コミュニケーション能力の向上などが強く求められている
・その一方で、安定した職業を持つ、職場で長時間働き男同士の競争を勝ち抜く、女性をリードする、といった旧来型の男らしさは依然として存在する
というふたつの相反する事態の指摘であり、これが現代の男性を引き裂いているということだ。
 
「それって現代女性も同じじゃないの?」という声もあるだろう。その通りだ。女性も
・時代の変化により、経済的自立やキャリア、仕事でのやりがいを獲得することが求められている
・その反面、家庭内の無償労働は女性がメイン、職場には旧態依然とした制度や慣習がはびこり、他人のリードに乗らずはっきりした意思表示をする女性が疎まれる空気は無くなっていない
というジレンマに悩んでいる。
どちらにも辛さはあるが、変わることへのモチベーションの高揚という点においては、男の戦いの方がより困難ではないだろうか。
 
女の戦いには、これまで男性しか持ち得なかった経済力や社会的地位を新たに獲得し、上昇するという側面がある。だが男の戦いはそうではない。男性に必要な変化は、これまで持っていた目に見える財産をいくらか手放すことにもつながる。どちらならソルジャーとして戦意を保てそうか、そもそも戦いの必要性を自覚し共有できそうか…明白である。
リードするしない、男/女らしい振る舞いをする、といった意識面での変化についても同様のことが言える。正しさは別として、男っぽいことはカッコいい、女っぽいことはみっともない、といった認識が広く共有されているから("雄々しい"と"女々しい"との意味の落差を考えてみてほしい)、男性が女性的な方向に行動や態度を変えることのハードルはとても高い。
 
そしてなぜ男性が古い男らしさを捨てられないかといえば、それは古いとはいえ、いや、古いからこそ多くの人に認められ、褒められやすいことだからだ。多少時代に合わないなと思っても持っていた方が安心だし、自分だけそれを捨てたらどんな批難を受けるのかとおそろしくなってしまう。
新しい要求があるなら、古くて優先順位の低い要求を捨てることで理想の男性像をアップデートしなければならない。しかし実際には要求がどんどん追記されていくばかりなのだ。
 
一般的に女性は男性より立場の弱いものであるという認識があるがゆえに、女性たちは問題に自覚的になりやすく、フェミニズムの伝播や女らしさからの解放は地道ながら続いてきた。だが男性は強者のポジションにいたがゆえ、諸々の生きづらさが表面化されにくかった。そして辛さを言語化できないばかりか、問題に直面していることにすら気づかない者もいる。
今後男性学が多くの男性を導くことを切に願う。
 

こんまりさん、出番です

男性は一度、自身の目指す男性像を描き直す必要がある。そのためにはまず要件整理だ。今の男性はあれもこれもと要件を詰め込まれて計画が迷走する新国立競技場状態である。不要な条件は捨てていかなければならない。
 
捨てるといえば、今をときめくこんまりさんだ。片付けの魔法で人生を大いにときめかせようではないか。
こんまり流片付けの極意は、「自分の心がときめくかどうか」を基準にして物を選別することだという。無いとなんとなく不安だから、これを捨てたら誰かに責められそう、という思考は一旦置いておき、自分はこれに惹かれると本心から思えるものだけを残す。
「男は論理的であるべし、感情に流されてはならない」とか、「ヤンチャやバカをやってこそ男」とか、本当に必要か?無理してないか?その先にいる自分にときめくことができるか?ひとつずつ自分に問いかけてみてはどうだろう。
 
こんまり流について秀逸だと感じたのが「物事の役割を考える」ということ。たとえば、買ったけど似合わず着なかった服には「私に似合わない服の傾向を教えてくれた、そしてその役割は終わった、ありがとうさようなら」と華麗に別れを告げる。
私たちはこれに倣い、「男は女をリードするべき」「男は仕事に邁進することでのみ成長できる」などの価値観には「これまでの日本を支えてくれてありがとう、さようなら」と男性が言えるような社会をつくらなければならない。
 

ときめく男はカッコいい

さてすっかり忘れていると思うが、タキシード仮面のことを思い出してみよう。
彼は愛する人のサポートに徹するという、男らしくない、むしろ女性的とされるポジションに立つ。それでもかつての少女たちは、彼が男としてみっともないとか頼りないと評することはなかったように思う。
それは彼が自らの意思でセーラームーンを愛し、支えようと決意した上でのことだと十分にわかるからだ。彼が戦闘の舞台で強さを披露しなくても、自分にとってなにが大切なのかを見失わない姿にたくましさを感じるからだ。
常に最前線の競争に身を置くことだけが戦いではないというのは、実は女性にはとても身に染みていたりする。これまでは女性こそがタキシード仮面の役割を担い、思い思いに戦いの表舞台で飛び回る男性を横目で見ていたからだ。
自分の心に従うことで人生をときめかせている男は、"男らしく"なくたって強くカッコいい。戦う女はそれを知っているはずだろう。
 
旧来的な文化と現代の新常識とで板挟みになった現代の男性は「女性を快くサポートできるタキシード仮面であれ、だが同時に天下一武道会にも出なければ男として認めない」とでも言われているようなスーパーハードモードを生きている。自分が本当に実現したいこととそうでないことを仕分けなければ、人生は無理ゲーと化す。
 
だがこの要件整理自体が面倒すぎるため、「今はとりあえず天下一武道会のことしか考えられないかな…」と先送りにしてしまう者もいる。
もちろん、自身が「世の中にこんなに強いヤツがいるなんて、オラワクワクしてきたぞ!」というような生来の武闘家体質だと思うなら、ひとまず武道会に全てを注ぎこんでもいいだろう。だがもしもそうした生き方に違和感を覚えた男性がいたならば、できる限り自分の感情を尊重した選択をしてほしいし、そうすることが否定されない空気を作りたい。
 
セーラームーンの登場は「女が闘志や力を持って戦ってもいい、たとえそれが"女らしく"なくても、その姿は美しい」と私たちに教えてくれた。
私は今、「男が愛やときめきのために戦いの舞台を変えてもいい、たとえそれが"男らしく"なくても、その姿は誇らしくカッコいい」と男たちに伝えたい。

 

男がつらいよ 絶望の時代の希望の男性学

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