こりくつ手帖

なにかというとすぐに例え話をはじめる20th century girl

幸せや成功を晒すことには意味がある

先週、テレビ放映された森三中大島さんの出産映像を観た。

(半日間叫び続けた私の出産と比べて)非常に穏やかな出産だったので驚き感心したのと、演出過剰でなく且つ大仕事感が伝わってくるところがいいなと感じた。
 
この放映が予定された際、「ネットでは否定的な意見が殺到」という真偽のわからない記事が出た。いろいろな意見がありそうな中で「産めない女性に対する配慮がない」という意見が記事のタイトルに引用されたことには正直「またこういう煽りか…」と感じてしまった。
この放送を観たくないという意見があるのは別におかしなことではない。何がいやかって、「産めない女性が産める女性に『配慮がない』と怒る、そういう妬みの存在を感じさせる文脈は人々の興味関心を惹くだろう」という前提で記事が書かれているということだ。反対意見の多数を占めそうな「出産は生々しいから見たくない」を差し置いてこれをタイトルにするあたり、妬みという感情が人目を引くことを期待して書かれていると感じる。この記事を「女の嫉妬は怖いなー」とニヤニヤ眺める層すら当然想定されているのだろう。
 
もう『人は自分ができないことをしている人を妬むのが当然である』という思考をベースに結婚や出産や仕事、つまり人生の選択をあれこれ語るのはやめないか。幸せや成功を語ることを過剰に控えさせる空気は無くさないか。でないと私たちは自由な社会で不自由に暮らし続けることになる。
 
幸せや成功を語ることを過剰に抑圧することは持たざる者への配慮になるのだろうか。
 
配慮という名目で価値観の押しつけをしているケースは多い。「これを手に入れられない人間は配慮されるべき人間だ」という決めつけだ。それは配慮する相手を傷つけないどころか一方的に「かわいそうな人」と認定することになる。
もちろん過剰に幸せ(だと自分の価値観で判断していること)を自慢するのも価値観の押しつけである。「結婚はいいよ~、なんで結婚しないの?」といった相手固有の状況や価値観の存在を一切想定しないような言動はさすがに無神経と言われても仕方ないかもしれない。でも「未婚のあの人には、私の幸せな結婚生活について語ってはいけないのだ」といった”自重”もどうなんだろう。自重していると相手に伝わりにくい分マシかもしれないが…。
バランスが難しいが、「私は人を傷つけないよう気をつけている」という自負から失礼な”かわいそうな人認定”をしてしまう罠は、なまじデリカシーがある人ほど陥りやすい。
 
さらに危険な罠は、自分で自分をかわいそうな人認定してしまうことである。
成功した経営者、好きな仕事をして自由に生きる人、新しいビジネスを掘り当てた人…こういう人たちに成功の理由を尋ねておきながら、いざ彼らの歩みを知ると「そんなのは能力のあるひとにしかできない」「恵まれているから言える」などとつまりは「成功をひけらかすな」という旨のバッシングをすることは自分自身へのかわいそうな人認定の最たる例だ。その人と同じになれない自分に配慮しろ、と言ってしまっているのだが、それは自分への呪詛となって跳ね返り劣等感をさらに深めることになる。
 
そしてもとよりホンワカした幸せよりも熱を帯びた怒りや嘆きの方が人々に伝搬しやすい性質があるのに、これ以上幸せを封殺したらどうなるのか。
たとえば、20代未婚女性が「家庭と仕事の両立は大変そうだと思うか」という問いに9割以上がYESと回答しているというトピックを見た。これは確実に当事者たちの「両立がいかに難しいか」「国や社会のこういうところが問題だ」という声が無数に溢れている結果だ。
怒りや嘆きは問題解決に必要なもので、こちらを封殺してもいけない(私も関連のエントリを書いたりしている身で言い訳がましいが)。だがそれだけでは、当事者はもとよりその外縁にいる人たちが恐れをなして希望や意欲を失ってしまう。両立が上手くいっている家庭からの「うちはこんなふうにできていて満足」という声や片働き家庭でも「このスタイルに納得していて幸せ」という声が挙がったなら、それはモデルケースのひとつとして共有されれば良くて、間違っても「実現できない家庭への配慮がない」「条件の恵まれた立場を自慢するな」などと言って口を塞ぐべきではないのだ。
 
万人が同じ形の幸せを手に入れられるわけではないし、万人が成功する手法なんかあるわけない。そんなもの探しているうちに人生は終わってしまう。
世の中にはいろいろな道があり、むしろ誰かと違っていてもと大丈夫なんだと知れることがいろいろな人の成功談を聞くメリットで、それを隠しおけと言うことは社会にある選択肢を見えづらくしろと言うことになる。だから発信力のあるメディアが妬みという感情を利用して人目を引き、その結果「やっぱり幸せをおおっぴらにしたら叩かれるものだよね」という空気を作ってしまうのは社会を生きる私たちにとっては損失なのだ。
 
選択は常に選べない選択肢の発生を伴う。もしも自由が欲しいなら、そのことに慣れる必要がある。
情報を受け取る側であるときは自分と違う選択をした人の存在にザワつかない強さを持ちたいし、情報を発信するときには安易なやっかみや揶揄を口にして人目を引くような真似はしたくない。それこそを配慮と呼びたい。

こんなことを言っている私も、仕事を辞めた直後は子持ちで共働きを実現している人を見ると自分よりも「正しい」気がして劣等感に苛まれたし、なんなら「共働きが当たり前となった今の時代…」という文章を見るだけで自分は「当たり前」から脱落したのだと勝手に落ち込んだ。
でも、それではせっかく選んだ自分の道を前に進めない。人の選択に心乱されない強さを身につけるのは自分のためだ。

幸せや成功を語ることには大きな意味がある。
誰かを勇気づけ、導き、気づきを与え、可能性を示す。
妬ましいという感情すらうまく扱えば向上心や問題意識に変えることができる。
それに自分の進む道がこの先思いもしない道につながる可能性もあるのだから、自分とは違う世界にいるように見える他人の幸せだってむやみに遠ざけたり否定しては損だ。道標となる幸せのサンプルは少ないより多い方がいい。

恵まれない自分には他人の幸せを喜ぶ余裕はない、そう思って人は恵まれた者に石を投げるのかもしれないが、他人を認められないというのは自分を認められないことと直結していて実はすごく辛いことだ。ありふれた表現をすれば、嫉妬は麻薬のようなものである。手軽な高揚感と引き換えに我が身を蝕んでいく。
「ここに麻薬がありますよ!」と叫んで注目を集めるようなことは、そこが公共の場であれ自分ちの庭先であれ、恥ずべきことだ。それをためらわず実行する人間の目などに"配慮"して沈黙する必要はない。

と、妬み嫉みといったネガティヴな感情を排除して思考した結果、身も蓋もエンターテインメント性の欠片もない正論が書き上がってしまうことがわかり、やはりメディアの作り手としてはドラッグの一発もキメたくなるのだろうと思いつつ、それでも真摯な視点とエンタメ性を両立させる優れた書き手も多くいるわけで、書き手も受け手も言い訳なしで己を鍛えたいなと正論で終わろうと思う。