こりくつ手帖

なにかというとすぐに例え話をはじめる20th century girl

輝く女性と少女漫画脳

私も少女漫画脳だった!

子供の頃はどちらかというと少年漫画が好きだった。ドラゴンボールやらスラムダンクやら幽遊白書やらを見て育った。少女漫画も読まないわけではなくて、小学校低学年のうちは毎月『りぼん』を買っていたし、少女向けアニメも見ていた。ただ少女漫画の恋愛要素にほとんどのめりこめなかった。

 

少女漫画の「かっこいい男の子」は非常に気が利いている。女子の心に刺さることを刺さるタイミングで言ってくれるし、女子と同じくらい恋愛のことを深堀りして考えている。そんなわけないだろう、と思った。優しいキャラにしても無口キャラにしても俺様キャラにしても、彼らの対応は的確すぎる。感情の言語化がうますぎる。そのあたりが女子側のご都合主義っぽくてかえって好きになれなかった。

ちなみに今は「リアリティどうこうじゃなく、フィクションはフィクションとして楽しむものだ」と理解できる。おそらく子供の私は現実の男性と恋愛できない立場ゆえにフィクションにリアルを求めすぎていたのだ。

 

こんなふうだから「私は少女漫画脳ではない」と思っていた。

少女漫画脳とは、少女漫画に出てくる男を理想として現実の男性とのギャップを受け入れられないこと、それだけを指すと思っていた。実際「少女漫画じゃあるまいし」という言葉は「そんな完璧な男なんていないよ」「恋愛に夢を見すぎだよ」という文脈でよく使われる。

 

だが最近ある少女漫画を読み、もう一つ別の種類の少女漫画脳があること、私もそれにどっぷりはまっていたことを思い知らされたのだった。それは『少女漫画の主人公のように光る才能を発揮して自分のアイデンティティを皆に肯定される仕事を手に入れた上にそんな自分を理解し支えてくれるパートナーにも出会い、仕事も愛も手に入れることこそが女の子の最上級HAPPY!脳』である。

 

ご近所物語』で描かれた女の子の完全形態

その作品とは『ご近所物語』だ。ざっとまとめると、次のような内容である。

・主人公・実果子はデザイン系専門の学校に通う高校生。夢は洋服のデザイナーになって自分のブランドを持つこと。その突出した才能と情熱は難なく周囲に認められ、学内で活躍、学長推薦によりロンドン留学に旅立ち、後年はデザイナーとなり念願の店を持つ…というサクセスフル女子。

・同じ学校に通うツトムは実果子の幼なじみでお隣さん。実果子、ツトム、その他数人で立ち上げたフリマサークルでの恋愛模様が描かれるが、2人はわりと早い段階で安定的なカップルとなる。本編ラストでは実果子留学のため遠恋に。その後の番外編では2人が結婚し、実果子は妊娠している。テンションの上下が激しく"素直になれない"実果子を基本いつもまっすぐに受け止めるツトム。


…本題の前にどうしても言いたいのだが、この"素直になれない"ってずるくないか。どんなにわがままでキツいことを言っても本当のあたしはそんなんじゃないの(で愛して)、素直に言えないだけなの(で察して)、本当は優しくて傷つきやすいの!(だからあなたが私にわがままでキツいことを言うのはナシだよ?)って、おい!やめろ!こんなふうに振る舞っても自分を受け止めてくれる人と出会って幸せになろうね☆みたいなドリームはやめてくれ!それ男も女もしんどくなるやつ!もはやドラッグ!あなた人間やめますか?少女漫画やめますか?

ああ、つい!マーク連発でまくしたててしまった。フィクションとして楽しむべきと理解したとか言ったくせに、ダメだ、まるでわかっていない…。さっきは達観した人ぶりました、すみません。素直になれないだけです。


本題としては、ここで描かれている実果子のあり方が

・仕事と恋愛のどちらも手に入れるパワフルでハッピーでパーフェクトな女性像の典型であり、

・私たちは未だにこうなることが至上という思いが抜けない少女漫画脳なのではないか

と問いたい。

厄介なのは、この作品に限らず少女漫画に登場する仕事が大抵デザイナーとか女優とか作家とかであり、会社員や公務員ではないことだ。代替不可能な才能や個性を世間に求められる立場であり、それゆえ家庭を持っても職場のペースについていかなきゃというプレッシャーもなく、ハッピーにマイペースに両立が可能だという夢を見せつけてくるのである。(実際はこれらの職業もそんなに簡単じゃないことは言うまでもない。)

少女漫画はいつしか、理想的な恋愛への憧れだけではなく、自己実現に直結するような仕事への憧れさえも少女たちに植え付けるようになっていた。近頃の少女アニメにアイドルものが多いのはその系譜であるし、一方で恋や仕事が思うようにならないリアルを描いたアラサー女子漫画が流行っているのはその反動である。

「女性が輝く社会に」という政府のスローガンは女性たちから兎角こき下ろされているが、それは私たち自身が誰よりも「輝かなければならない」と強く思い込んでいることの裏返しではないか。


輝かなくても燃え続けたい。

とはいえ、仕事で理想通りの自己実現をすることだけが正解だとは本作は述べていない。
実果子の親友リサは、同じくロンドン留学を進められるものの、同棲中の彼氏と一緒にいることを優先して断る。彼氏に強要されたわけでもなく、自分一人の意思で。そして作中で彼女を説得しようとする人間はいない。
子供の頃の私ならおそらく「なんでリサは彼氏に相談もしないで留学を断っちゃうんだろう?」と思っていた。今読むとここが本作ならではの大人っぽさだと思う。
実果子の道もリサの道も、自分の意思で進むものだから尊いのであり、成功するかどうかでジャッジされるものではないーーそんな視線が確かに存在するのだ。

実果子をはじめとする作中の女の子たちは、輝いているというより、燃えている。外からの光を反射するのではなく、内に光を宿している。
女性を輝く/輝かないと分けたがる外部の光なんて、いつ急に角度を変えるかわからない。そんな光を受けて輝くために自分の心身をカッティングする必要はもうないんじゃないか。自分の心を燃やすことのできる燃料はなんなのか、私たちはそれこそを見つめる段階に来ている。

セーラームーン世代(アラサー女子)の正体はちびうさなのかもしれない

アラサー女子は憧れのセーラームーンになれたのか

前回エントリでも触れたが、久しぶりに読んだセーラームーンが面白かった。
 私が何度も登場させているドラゴンボール同様、セーラームーンは現在の30歳前後の層を語る上で無視できない存在だ。最近はセーラームーンCrystalというリメイクアニメも放送され、セーラームーンを題材にかつての読者層であるアラサー世代の女性を分析した書籍(セーラームーン世代の社会論)が出るなど、再び注目が集まっている。

 

ただ、物語の主人公であるセーラームーンとアラサー女子がそれほど似通っているかというと怪しい。むしろ私たちがシンパシーを感じられるのはセーラームーンの娘、ちびうさの方ではないだろうか。なぜならちびうさが抱えるコンプレックスはセーラームーン世代であるアラサー女子が抱える葛藤と痛いほど重なるからだ。

 

セーラームーン

・地球を守るため敵と戦う壮大な使命(やりがいある仕事と能力)を持ち、

・タキシード仮面(ハイスペックで誠実な夫)とちびうさ(子供)も持ち、

・未来では世界を救ったクイーンとして世間からキャリアを肯定・称賛され、

・仲間のセーラー戦士たち(同僚や友人)にも恵まれ、

・その上、フワフワと長い髪、ミニスカートのコスチュームとそれを着こなすプロポーション、宝石をちりばめたキラキラのアイテムを携えて戦う姿は美しく、世界中の少女を虜にした。

 

こうしたセーラームーンの姿は良く言えば「憧れの女性像」だが、一歩間違えると「女性はかくあるべしという完璧すぎる理想像」となる。

そして私たちセーラームーン世代はそんな理想どおりの姿になれているかといえば…少し、いや、だいぶ自信がない。

 

一方でちびうさは「自分もセーラームーンのように強く戦い、美しい女性になって、タキシード仮面のような自分だけの王子様と愛し合いたい」と何度も願う。

そればかりか母のようになれない自分へのコンプレックスを敵に付け込まれて一時はダークサイドに堕ちる(闇の力でブラックレディという敵キャラに変身させられる)など、相当こじらせている様子だ。

あれ…もしかしてうちら、こっち側じゃね?

 

ちびうさがコンプレックスまみれな理由

ちびうさはセーラームーンの血を引いているのに、なかなか戦士に変身することができない。900歳を過ぎているのに、体は子供の姿のままで成長しない。世界を救うパワーの源、幻の銀水晶を使えない。母と違って仲間の戦士もいない。そして父のような理想の王子様も自分にはまだ現れない。ないないづくしである。 

これだけでもくじけそうだが、彼女がダークサイドに堕ちた最大の要因はこれらの不完全さを周囲に嘲笑われていたからであるというのがなんとも痛ましい。
「いつまでたってもチビ」「クイーンの娘なのに変身もできない」と人々に陰口を叩かれるちびうさを、「いつまでたっても独身で…早く子供産まないとヤバいよ?」「昔に比べて今どきの母親は未熟でワガママ」「 子育てやプライベートと仕事を両立したいなんて女はワガママ(企業戦士に変身できていない!)」と四方八方からの世間の声に翻弄されるアラサー女子と勝手に重ねてしまい、もはや感情移入が止まらない。
 
そしてちびうさがなぜ覚醒できないかといえば、それは皮肉にも「立派なクイーンの娘だから」に違いないのだ。
 
セーラームーンはまず強い敵が襲って来る→戦士として覚醒→経験値を積む→未来でものすごくヤバい敵が現れるが戦士としてレベルアップ後なので勝利→世界平和、というステップアップストーリーをきちんと踏めている。
だがちびうさは巨大な敵が駆逐された後の世界に生まれたのだ。
平和な世界に生きる幸運とプリンセスに生まれついたアドバンテージがある代わりに、戦士として目覚めるきっかけや経験を積む機会は不足し、立派すぎる母との比較で本来決して低くないはずの自分の能力にすら自信が持てずにいるのである。
おまけに憧れの王子様すら既に立派な母のもの。
これではやさぐれて地球に邪黒水晶を打ち込んでしまうのも無理はあるまい。
 

アラサー女子が人生を思い悩む理由

こうしたちびうさの「恵まれた不遇」がまたもやアラサー女子と重なる。

私たちは均等法が施行された頃に生まれ、総合職女性の採用も珍しくなくなった頃に就職し、そのことで育児休暇を取得する女性が本格的に増えてきた今では”育休世代”などと呼ばれることもある。

上の世代よりも恵まれた環境に生まれついたのは幸運だが、戦って権利を勝ち取ってきた経験があまりないまま過酷な戦場へ参入し、男性と同じ長時間労働、仕事と家庭との両立、課題が山積した現代の子育て環境、正規・非正規労働の格差…といった数々の強敵に突如遭遇し途方に暮れている。

おひとりさま、DINKSといった言葉が世間に浸透し、昔よりも社会の多様性が目に見えやすい気はする。だが結局世間が称揚するのは、やりがいある仕事・円満な家庭・欠かさぬ周囲への気遣い・疲れを感じさせない美しさ・前向きな姿勢…とすべてを備えたスーパーウーマンだ。選択肢は増えたけれど、正解はひとつのまま。それってかえって難問になっただけでは?思考回路はショート寸前だよマジで!

 

さて、ここまでは私たちにとってのセーラームーンを「現代で称揚される理想の女性像」と捉えて話を進めてきたが、彼女を「母親世代」と捉えたときにもうひとつの課題が浮かび上がる。それは旧世代の男性観と現代的な男性観とのダブルバインドだ。

 

ちびうさの理想の王子様はタキシード仮面、つまり自分の父親だ。だからその王子様が自分のものではないことをちびうさは知っていて、自分だけの王子様にはいつ会えるのかと思い悩んでいる。

母親世代から受け継がれている「男は女をリードするもの」という価値観から完全に解放されて恋人を探せる人は少ない。だがいざ付き合った後のことを考えると、現代は働き方や家庭での役割分担、そもそも結婚するのかしないのか、いちいち考え議論するべき岐路が多く、それはリード・被リードの恋愛観で結ばれた関係では対応しづらい。

そして対話は対等にできる関係だとしても、社会的ポジションとなるとまた話が違ってくる。バリキャリの範疇に入るような総合職正社員のワーキングマザーたちでさえも「自分と同じかそれ以上に能力ある人を結婚相手に選んだがゆえに、そういう夫に育休を取らせたり家庭優先の働き方を求めて"キャリアを犠牲にさせる"ことができない」といった悩みがあるのだから、この問題は根深い。(蛇足だが、夫の側にも「妻と同程度以上に"降りる"ことには抵抗がある、必要性を感じない」という意識が拭えないこと、実際問題として夫が降りることに経済的合理性がない社会システムであること、という要因がある。)

 

要するに、子供のころから形成された王子様像と現在必要とする男性像とに大きな齟齬が生じてしまっており、それには社会的な要因も大いに絡んでいるためになかなか抜け出せない。

そうしたわけでアラサー女子は「自分ではない人のための王子様」への憧憬を抱いたままで今まで見たことのない「自分専用王子様」を探して道に迷っている。ちびうさみたいに、いつでもベルを鳴らせば来てくれる美少年(注1)と巡り会えたらなあ!

 

禁忌の中に希望がある

とどめを刺すようだが、私たちは経済的な面でも親世代のような戦果はおそらく得られない。

強い敵をことごとくセーラームーンが倒してしまったあとの世界に生きるちびうさのように、高度経済成長やバブルという祭りが終わったあとの日本、人影も少なくなり、祭りに浮かれた人の群れが撒き散らしたゴミがそこかしこに散乱する社会に私たちは生きている。安定した右肩上がりの収入や大企業正社員という威光、そうした旧来的なパワーに限っていえば親世代を超えることは難しい。このあたりの葛藤はアラサー男子も大いに持っているだろう。

 

それじゃあ希望はどこにあるのかというと、それは私たちが新しい時代を生きる新しい戦士であることだろう。

これまで述べたコンプレックスや苦悩は、旧来的価値観を捨てきれないがためのものだ。苦しみながら価値観の更新をおこない、新しい価値のあるものに出会うことこそが私たちの戦いである。そして戦士になるには覚醒が必要だ。

 

ちびうさがセーラー戦士に変身したきっかけは唯一の親友・セーラープルートの死である。またその後も20世紀で出会った友達・土萌ほたる(セーラーサターン)の死によってスーパーセーラーちびムーンへの進化を遂げた。

実はふたつの覚醒に共通しているのが、ちびうさがどちらの友人とも「行ってはいけないと言われた場所」で出会っていることだ(注2)

禁忌を破り、自分の心のおもむくままに従った行動がのちに彼女を覚醒させた。

 

やってはいけない、前例がない、うまくいくかわからない、こんなんじゃバカにされる。そうした様々な言葉に邪魔されて自分自身が望む選択をためらっていないだろうか。周囲が作り出した禁忌を越えたら、そこには自分の大切な世界を築けるかもしれない。そうして覚醒した力が、いつか世界を助けるかもしれない。

ちびうさは孤独を知っているから、行ってはいけない場所でひとり過ごす友人を訪ねた。悩み苦しむ心があるから出会えるものがある。

いささか前向きすぎる結論かもしれないが、物語のヒロインがくれるメッセージとはそういうものだろう。

心に小さなヒロインを宿し、私たちは安心してコンプレックスにまみれていよう。

 

美少女戦士セーラームーン新装版(6) (KCデラックス なかよし)

美少女戦士セーラームーン新装版(6) (KCデラックス なかよし)

 

 注1)第4期デッドムーン編で出会う、ちびうさの”王子様”エリオス。地球の聖地エリュシオンの守護祭司で、初めは敵の呪いによりペガサスの姿となっている。地球の王子であるエンディミオン(タキシード仮面)を呪いから救い、彼のパワーの結晶”ゴールデンクリスタル”を解放したときにエリオスの呪いも解かれ、少年の姿を取り戻す。これは男性の解放によって新たな世代の女性にふさわしいパートナーが生まれることを示唆しており、非常に現代的な要素である。第4期のメインテーマは「子供から大人になるための夢の更新」だが、タキシード仮面を主軸に新時代のパートナーシップへの転換を描いたものでもあり、個人的にここが本作のハイライトだ。敵の妖術でセーラームーンとタキシード仮面が子供の姿に変えられ、セーラームーンが夢を見るシーンがある。夢の中のタキシード仮面はいつもと違ってひたすらセーラームーンに尽くし、甘やかす。それは甘い夢だけど本当のタキシード仮面じゃない、どちらかが相手にひたすら尽くすような関係を求める夢から男女ともに覚めよう、という大変象徴的な場面である。

注2)セーラープルートは時の扉を司る孤独な番人。扉のところへ立ち入ってはいけないとちびうさは母から言いつけられていた。土萌ほたるは立入禁止区域である研究所で暮らしている友人のいない少女。ほたるは父である土萌教授(既に敵に憑依されている)に肉体を改造されており、そのために敵に肉体を乗っ取られて一度死ぬ。これを、親の思想に従って生きることを強制された子供の苦悩と破滅、になぞらえると、ちびうさとの対比が生きる。2人はどちらも親由来の苦しみを抱えているが、親の力の及ばない自分の世界を手にしたか否かが明暗を分けた。

 

【関連記事】

 セーラームーン2部作の前篇。

tsutayuri.hatenablog.jp

 

 

20世紀のタキシード仮面と21世紀の『男がつらいよ』

タキシード仮面はつらいよ

夏特有のノスタルジーに駆られ、およそ20年振りに『美少女戦士セーラームーン』の原作コミックを読んだ。
小学生だった連載当時は気づかなかったが、今読むとこの作品は壮大すぎてすごい。女の子だって戦うわ!から始まり、大人になるとはどういうことか、戦いとは何か、自分の人生を歩むこととは、なぜ人は生まれ生きるのか…とどでかいテーマが次々に描かれていて唸ってしまう。
 
そして当時と今とでは私が注目するキャラクターも違う。
昔はメイン5人のセーラー戦士たちの個性にもっぱら夢中で、セーラームーンごっこで誰がどの役をやるかは重要な議題だった。
しかし今見ると、ちびうさとタキシード仮面、この2人がぶっちぎりで面白い。
ちびうさが象徴する「デフレの時代で親より立派になれない子供たち問題」については次回考察するとして、今回はタキシード仮面を通して描かれる"現代の男性に要求される理想像"について着目してみたい。
 
この作品はアニメと原作で設定の差異がいくつもあるが、タキシード仮面についても例外ではない。アニメでは初登場時既に大学生だが、原作では高校生。アニメではセーラームーンの変身につられて本人の意思と関係なくタキシード姿に変身するが、原作では自発的にタキシードに着替えている。
彼に以前から抱いていた「大学生でありながら中学生の主人公に手を出す不審者」というイメージは払拭され、代わりに「高校生でありながらタキシード姿で夜の麻布十番を徘徊する不審者」というイメージに更新された。
 
…本題はそこではない。
タキシード仮面が面白いのは、過剰とも言えるスペックの高さとそれに見合わぬ黒子ぶりである。
容姿が良く、頭も良く、身体能力も悪くなく、幼い頃に両親が事故死しているという設定にも関わらず港区のマンションに一人暮らしする経済力があり、セーラームーンを的確にサポートする冷静さと一途な愛を貫く情熱を持ち合わせ、おまけに未来から突然現れたムスメのちびうさの面倒を見るイクメンぶりもさらりと披露。
フルスペックとはこのことか。彼は原作者の武内直子氏が無邪気に理想を詰め込んで作った王子様だ。
 
けれど、ここまで完璧な装備の彼が戦いの先陣を切ることは決してない。
 
世界を救う力を持つのは常にセーラームーンで、その次に控える側近はセーラー戦士の女子達だ。
タキシード仮面は必要とあらばセーラームーンの援護射撃を(誰に戦闘を教わったわけでもないのに)きっちりこなすが、たまに敵にさらわれて洗脳されたりもするし、最終章となる5部ではなんと冒頭で死亡する。いくら少女漫画とはいえ、主人公の恋人ともなればもう少し活躍の機会、特に「男らしく」主人公をリードする場面がありそうなものだが、後半に行くほど彼は守られる立場であるように描かれていく。ちなみに新装版コミックでは、彼は一度も表紙に登場させてもらえない。
 
男として持てるものは全て持った最強の男であるタキシード仮面は、本作の主題が「戦う女の子」であるがために常に後方支援に回らされている。最強の男なのに、最強の戦士にはなれない。
 
それに比べて少年漫画の中の男たちはどうだろう。彼らは誰かのケアやフォローをする責務はなく、むしろされる側だ。常に戦いの最前線で活躍し、戦いに勝ち抜けば最強の戦士の称号を得ることができる。そしてそうした明確な目標があるからこそ闘志を燃やし続けられるのだろう。
 
タキシード仮面にはそうした戦いの舞台がないが、かといって弱い男、頼りないダメ男でいることは許されていない。最強の戦士であるセーラームーンを支えるのには生半可な男では相応しくないからだ。
強い男に与えられるはずの称号も競争機会もなく、ただ「セーラームーンを愛している」という思いだけをたたえてひたすら理想の男であることを崩さないタキシード仮面。この戦い、相当キツい!
 

なぜ現代の男がつらいのか

ここで話を『男がつらいよ〜絶望の時代の希望の男性学〜』という本に一旦移す。
これは男性学で著名な武蔵大学助教・田中俊之氏の著作であり、現代の男性が男性であるがゆえに直面する生きづらさを的確に説いたものである。
フェミニズムのメジャー感に対して、男性学というものがあまりに知られなさ過ぎていることには常々危機感を持っていた。この本の登場はそんな私の心を大いになだめてくれた。
 
本書は、男性たちに自身の思い込みやしがらみを自覚させると共に、現代社会の課題を浮き彫りにする指摘に満ちている。
たとえば、
・男性は「達成」か「逸脱」で男らしさを誇示しようとする
・「論破」はコミュニケーションではない
・高い自殺率や長時間労働に見舞われる日本男性
イクメンプレッシャー
・「社会人」という言葉は間違っている
・女性を世間のモノサシに合わせて選んでいると幸せが遠のく
など、あらゆる男性特有の病を解説してくれる男性版家庭の医学とも言えるのが本書だ。
 
中でも重要なのは
・時代の変化により、イクメンであることや家庭への関わり、コミュニケーション能力の向上などが強く求められている
・その一方で、安定した職業を持つ、職場で長時間働き男同士の競争を勝ち抜く、女性をリードする、といった旧来型の男らしさは依然として存在する
というふたつの相反する事態の指摘であり、これが現代の男性を引き裂いているということだ。
 
「それって現代女性も同じじゃないの?」という声もあるだろう。その通りだ。女性も
・時代の変化により、経済的自立やキャリア、仕事でのやりがいを獲得することが求められている
・その反面、家庭内の無償労働は女性がメイン、職場には旧態依然とした制度や慣習がはびこり、他人のリードに乗らずはっきりした意思表示をする女性が疎まれる空気は無くなっていない
というジレンマに悩んでいる。
どちらにも辛さはあるが、変わることへのモチベーションの高揚という点においては、男の戦いの方がより困難ではないだろうか。
 
女の戦いには、これまで男性しか持ち得なかった経済力や社会的地位を新たに獲得し、上昇するという側面がある。だが男の戦いはそうではない。男性に必要な変化は、これまで持っていた目に見える財産をいくらか手放すことにもつながる。どちらならソルジャーとして戦意を保てそうか、そもそも戦いの必要性を自覚し共有できそうか…明白である。
リードするしない、男/女らしい振る舞いをする、といった意識面での変化についても同様のことが言える。正しさは別として、男っぽいことはカッコいい、女っぽいことはみっともない、といった認識が広く共有されているから("雄々しい"と"女々しい"との意味の落差を考えてみてほしい)、男性が女性的な方向に行動や態度を変えることのハードルはとても高い。
 
そしてなぜ男性が古い男らしさを捨てられないかといえば、それは古いとはいえ、いや、古いからこそ多くの人に認められ、褒められやすいことだからだ。多少時代に合わないなと思っても持っていた方が安心だし、自分だけそれを捨てたらどんな批難を受けるのかとおそろしくなってしまう。
新しい要求があるなら、古くて優先順位の低い要求を捨てることで理想の男性像をアップデートしなければならない。しかし実際には要求がどんどん追記されていくばかりなのだ。
 
一般的に女性は男性より立場の弱いものであるという認識があるがゆえに、女性たちは問題に自覚的になりやすく、フェミニズムの伝播や女らしさからの解放は地道ながら続いてきた。だが男性は強者のポジションにいたがゆえ、諸々の生きづらさが表面化されにくかった。そして辛さを言語化できないばかりか、問題に直面していることにすら気づかない者もいる。
今後男性学が多くの男性を導くことを切に願う。
 

こんまりさん、出番です

男性は一度、自身の目指す男性像を描き直す必要がある。そのためにはまず要件整理だ。今の男性はあれもこれもと要件を詰め込まれて計画が迷走する新国立競技場状態である。不要な条件は捨てていかなければならない。
 
捨てるといえば、今をときめくこんまりさんだ。片付けの魔法で人生を大いにときめかせようではないか。
こんまり流片付けの極意は、「自分の心がときめくかどうか」を基準にして物を選別することだという。無いとなんとなく不安だから、これを捨てたら誰かに責められそう、という思考は一旦置いておき、自分はこれに惹かれると本心から思えるものだけを残す。
「男は論理的であるべし、感情に流されてはならない」とか、「ヤンチャやバカをやってこそ男」とか、本当に必要か?無理してないか?その先にいる自分にときめくことができるか?ひとつずつ自分に問いかけてみてはどうだろう。
 
こんまり流について秀逸だと感じたのが「物事の役割を考える」ということ。たとえば、買ったけど似合わず着なかった服には「私に似合わない服の傾向を教えてくれた、そしてその役割は終わった、ありがとうさようなら」と華麗に別れを告げる。
私たちはこれに倣い、「男は女をリードするべき」「男は仕事に邁進することでのみ成長できる」などの価値観には「これまでの日本を支えてくれてありがとう、さようなら」と男性が言えるような社会をつくらなければならない。
 

ときめく男はカッコいい

さてすっかり忘れていると思うが、タキシード仮面のことを思い出してみよう。
彼は愛する人のサポートに徹するという、男らしくない、むしろ女性的とされるポジションに立つ。それでもかつての少女たちは、彼が男としてみっともないとか頼りないと評することはなかったように思う。
それは彼が自らの意思でセーラームーンを愛し、支えようと決意した上でのことだと十分にわかるからだ。彼が戦闘の舞台で強さを披露しなくても、自分にとってなにが大切なのかを見失わない姿にたくましさを感じるからだ。
常に最前線の競争に身を置くことだけが戦いではないというのは、実は女性にはとても身に染みていたりする。これまでは女性こそがタキシード仮面の役割を担い、思い思いに戦いの表舞台で飛び回る男性を横目で見ていたからだ。
自分の心に従うことで人生をときめかせている男は、"男らしく"なくたって強くカッコいい。戦う女はそれを知っているはずだろう。
 
旧来的な文化と現代の新常識とで板挟みになった現代の男性は「女性を快くサポートできるタキシード仮面であれ、だが同時に天下一武道会にも出なければ男として認めない」とでも言われているようなスーパーハードモードを生きている。自分が本当に実現したいこととそうでないことを仕分けなければ、人生は無理ゲーと化す。
 
だがこの要件整理自体が面倒すぎるため、「今はとりあえず天下一武道会のことしか考えられないかな…」と先送りにしてしまう者もいる。
もちろん、自身が「世の中にこんなに強いヤツがいるなんて、オラワクワクしてきたぞ!」というような生来の武闘家体質だと思うなら、ひとまず武道会に全てを注ぎこんでもいいだろう。だがもしもそうした生き方に違和感を覚えた男性がいたならば、できる限り自分の感情を尊重した選択をしてほしいし、そうすることが否定されない空気を作りたい。
 
セーラームーンの登場は「女が闘志や力を持って戦ってもいい、たとえそれが"女らしく"なくても、その姿は美しい」と私たちに教えてくれた。
私は今、「男が愛やときめきのために戦いの舞台を変えてもいい、たとえそれが"男らしく"なくても、その姿は誇らしくカッコいい」と男たちに伝えたい。

 

男がつらいよ 絶望の時代の希望の男性学

男がつらいよ 絶望の時代の希望の男性学

 

 

 【関連記事】

つい何かにつけてドラゴンボールの話をしてしまう。

 

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こちらも男性の生きづらさと無縁ではない。

 

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「恋愛工学はキモい」と「女の子はスッピンがいい」は似ている

私がツイッターを初めた頃に燃え上がっていた恋愛工学。この単語をまたもやTL上でちらほらと見かけるようになった。恋愛工学考案者・藤沢氏による小説「ぼくは愛を証明しようと思う。」が出版されたことによる。この小説をcakesというサイトで覗いてみた。

全体的な感想としては、「使えそうなテクニックの紹介をベースに、それらの実行へのハードルとなる抵抗感・罪悪感を取り除く呪文をところどころに添え、読者にイケてる自分をイメージさせる描写をちりばめた気の利いた教本」である。

一部で「キモい」「ゲスい」「こんなのは恋愛じゃない」と酷評される恋愛工学。

たしかに恋愛工学者とのエンカウント体験の中にはキモい以外にかける言葉が見当たらない案件(恋愛工学読者のアポを断った話 - アオヤギさんたら読まずに食べた)もあり、酷評が出るのもわかる。だがこれを求める人がいることもわかるし、酷評を聞いた工学者たちが「そんなこと言ったって、こうすれば女がついてくるし、こうしないとついてこないじゃないか」と反発するのもなんとなくわかる。

誰も傷つかなければそれがいいけど、いろんな人がいろんなことを感じ、語るのは止められない。同様に、恋愛工学を説得してやめさせる、というのは難しい。かなりの無力感がある。

 

そんなことを外野オブ外野の私(31歳子持ち既婚女、特別男女関係に精通するわけでも豊富な経験があるわけでもない普通の人)が考えた。

 

恋愛工学への第一印象

「性暴力を生みかねない点を除くと、あまり怒る気にもならない」というのが大まかな内容を知った数ヶ月前に抱いた感想。(「性暴力を生みかねないことこそが最大の問題だ」という指摘もわかるが、伝道師の藤沢氏も、デートレイプになるようなことは避けるべきと一応断りを入れている。)

なぜ怒る気になれないかといえば、恋愛工学のテクニックと女性誌などで紹介される「モテテク」「愛されテク」とがどことなく似ており、既視感が拭えないのだ。

たとえば、非モテコミットの回避は「浮気をさせないためには男を安心させすぎちゃダメ。『オレの他にも彼女を狙ってる男がいるかも…?』と思わせるくらいが〇」みたいなよくあるアドバイスに似ている。トモダチンコは谷間見せやボディタッチに似ている。

全体的に「なんかこういうの見たことあるな…」というのが正直な感想で、「なんじゃこりゃー‼︎」というフレッシュな怒りがほとばしることはなかった。

テクニックにより効率よくうまみを得たい、そういう態度を多少セコいなとは思うが、他人になんと言われようが欲しいものは誰にでもあるだろう。セコいのかスマートなのか、決めるのは彼ら、彼女ら自身だ。

 

恋愛工学という名称について

恋愛工学の目指すところはなるべく多くのレベル高い女子と肉体関係にこぎつけることなので、「恋愛工学というよりヤリ工学じゃないか」という非難がある。だが藤沢氏は一貫して恋愛という言葉を用いる。

恋愛=love、という感覚が批判を呼ぶのだろうが、ここでいう恋愛のニュアンスはおそらくaffairに近い。そういう意味合いで恋愛という単語を使うのもアリではないか。人格同士が向き合う思いやりにあふれたものだけを恋愛と呼ばなければならないわけではない。恋愛はときに熱病であったり、錯覚であったり、事故であったりする。いや、よく知らんけど。

 

ちなみに"工学"の方も納得感あり。これ、理想とかあるべき論はまるっと捨てていて、あくまで「実際これが女に有効だから」という視点のみから追求する現場主義なのだよね。だから恋愛理論ではなく、工学。

よって「名称が不適切」という揶揄も、そうでもないなという感想。

 

なぜ恋愛工学は有効なのか

表面的なことへの感想はここまでにして、そろそろ内容の話を。 

 

既に各所で指摘されていることだが、恋愛工学のテクニックが効いてしまうのは

・「女をリードできる男」を求めてしまう恋愛観

・「セックスには愛が伴っているべき」というセックス観

・「女は男ほど性欲に引きずられて行動しない」という女性観

が多くの女性の内面に植えつけられた結果と言える。もちろん程度には個人差があるが、実際に工学者の成功体験があることはいくらかの実証となる。

 

特に、恋愛工学の忌み嫌われる点のひとつ「セックストリガー」(女性はセックスした男性のことを好きだと思い込んでしまうことを利用した肉体関係の継続。要は恋愛感情を装いセフレとしてキープする)。これは明らかに「セックスには愛が伴っているべき」という女性の価値観を逆手に取っている。セックスしたからには好意を向けるに値する男であってほしい、そしてこちらに愛を向けてほしいという執着を生んでしまう。

 

さらに、恋愛工学テクにより一時的に性欲を煽られてセックスに応じてしまったのだとしても、「女の自分が性欲のためだけに行動することなどあるだろうか、いや、どこか 感情を伴っていたはずだ、そういえばなんだかあの人のことが気になっている気がする…」という具合に術中にはまってしまう。

 

この性質の悪さに女性側は怒りを感じるが、怒ってもトリガーを無効化することはできない。

こうした経験がまるで無い立場から憶測で物を言ってみるが、トリガーが効かない女というのは「あのセックスは事故だった」と処理できる女であり、愛されないセックスをした自分のことを恥ずかしいともみじめだとも思わない女ではないか。

つまり、恋愛工学について肉体と愛情を切り離した振る舞いをする男が糾弾されているが、むしろ女こそ肉体と愛情(と己の尊厳)とを切り離す自由を獲得することで不本意な扱いを避けられるのではないだろうか。いや、何もフリーセックスに走れと言っているわけではなくて。

 

恋愛工学をやめさせることは可能か?

恋愛工学者を説得することは可能だろうか。

藤沢氏による二村ヒトシ氏との対談https://cakes.mu/posts/9927や、はあちゅう氏との対談

www.gentosha.jp

などを見る限り、それはなかなかハードな作業だ。

 

特にはあちゅう氏との対談に顕著なのが、現実論と理想論のすれ違いだ。

恋愛工学への嫌悪感や違和感は、多くの場合「感情の伴った一対一の関係を結ぶのが恋愛であり、その実現方法として恋愛工学はおかしい」というような筋で語られる。

それに対して「実際は女もそういう理想と違う行動をとるじゃん」「誰もがその理想を実現できるわけじゃない」という理想と現実の相違を持ち出されると、理想論は勢いをなくす。

本当は、理想論には理想論の存在価値があるのだが、議論をしてると「事実を言っている人間が正しいし客観的」という雰囲気に飲まれがちである。

 

 そしてはあちゅう氏の語る女性の恋愛観も、

男性側に、気持ちの動きを読んでリードしてほしいとは思います。

であったり、

女性にも、みんなからモテている男性を獲得したい、という気持ちがあるのは否定できません。「あなたしか見えない」ではなくて、「たくさんいるけどあなたしか見えない」と言われたいんです。

であったりと、「だったらやっぱり恋愛工学が効くんじゃん」と思わざるを得ない部分がある。(はあちゅう氏の発言を批難するつもりはない。むしろ矛盾を隠さず浮かび上がらせているのがさすがだなと思う。)

 

リードする役割から男を解放できない女がいるのも事実である。

リードされる役割から外れようとする女をぶん殴る男がいるのも事実である。

男女の内面規範を利用した行為は世の中にいろいろな形で存在する。恋愛工学はそのひとつに過ぎない。

恋愛工学、そしてそれが象徴する男女の規範の非対称性に腹が立つのはもっともだし、怒りを封じ込めろというつもりはない。ただ、恋愛工学を滅しても非対称性は消えない。非対称性の解消を恋愛工学者に求めることはできない。

 

ちなみに、藤沢氏は何を言われても揺るがず持論を展開するので常に相手を論破しているように(特に工学者からしたら)見えそうだが、そういうわけでもないことを指摘しておく。

例えば

はあちゅう (略)この本を読むと、世の中の男性の中に「やったら終わり」という関係性を求めている人が、私が思っているよりも多いのでは……と怖くなってしまいます。

藤沢 たくさんの女性にモテる男、というかヤリチンのことを、女性は誤解しています。そういう男は女をとっかえひっかえしていると非難されるけど、誠実で一途で、結果的にモテない男だって、オナニーするときに、いろんなAV女優をとっかえひっかえ見てるでしょ? (中略)いろんな女性と交わりたいというのが、男性の本音というか、性欲で、全ての男性にそういう願望があることはまったく否定出来ない。やれるか、やれないか。あるいは、やるか、やらないかの違いはあったとしても。

という藤沢氏の主張は、「食い逃げは悪いというけど食い逃げをしない人にも食欲はあるよね、やるかやらないかの違いはあったとしても。」というようなものだ。「違いはあったとしても」じゃなくてその違いこそを問題視しているのだから、これは返答になっていないのではないか。はあちゅう氏(と多くの女性)は食欲を非難しているのではなく、食い逃げが怖いしずるいと言っているのだ。

 

小説本編にも同じことがいえるが、具体的なテクニックとその原理にはある程度説得力があるが、「多数の女を掛け持ちしてセックス獲得を目的にすること」の正当性を語りだすと急に論理展開があやしくなる傾向がある。無理な弁明をしなくても「やりたいからやる」でいい気もするが、おそらくロジックにより工学者の罪悪感を取り除いて教義に邁進させる必要があるのだろう。(あるいは、上記のような問いかけ、その裏にある女性の心情にあまり価値を見いだしておらず、整然と応える必要性はないと考えている、か。)

 

「女の子はスッピンがいいよね」と言われてもムカつかずにいられるか

ここで「恋愛工学なんか小手先で意味ないし女性を騙すなんて卑怯!そんなもの使わずに女性と向き合ってコミュニケーション能力を上げてよ」と言われた恋愛工学者の気持ちを想像しようと試みる。

 

それはきっと、女性が男性から「メイクした顔が素顔と違うのって詐欺じゃん。やっぱり女の子はスッピンか、やりすぎないナチュラルな感じがいいよね」と言われるようなものだ。「ショートカットの女の子っていいよね」でも「シンプルな白シャツとデニムが似合う女の子っていいよね」でもいい。

女性の皆さんはムカつかずにいられるだろうか。うるせー黙れ、と思わないか。薄っぺらいこと言いやがって、と思わないか。「そんなこと言うけどスッピンやショートカットや白シャツデニムの普通レベルの女を実際褒めたりしないだろ!そういうほぼ素の状態でもキレイな女が好きなだけだろ!」と思わないか。私は思う。

 

これを逆に置き換えると、藤沢氏が「女は上位3割の男しか見ていない」と言っているのがどういうことか、そのことに工学者たちがどんな感情を抱いているのかを想像することができる。

しかも彼らが欲しているのは肉体関係とハイスコアプレーヤーとしての称号なので、「見る目のない相手にムカついても放っておけばいい」が通用しない。男を丁寧に見つめない女の精神にムカついても、それがSランクやAランクの肉体に宿っていたなら捨て置くことができないのである。そのジレンマから解放されるために「女の内面に価値はない」というロジックを展開することになる。

 

「女は結局モテる男が好きなんだから、それを擬態して何が悪い」という工学者たちに「すべての女がそうじゃない、少なくとも私は違う」と言ってみたところで、彼らにとって大した足しにはならないであろうこと、いざ女の言う通りに擬態をやめたらさんざんに扱き下ろされかねないという疑念を持つであろうことまでも推察される。 

そういうわけで、「恋愛工学はキモい」と「女の子はスッピンがいいよね」は似ている。言う方の心理は似ていない点もあるが、言われた方の心理は似ている。

これが私の無力感の理由である。

さらに付け加えれば、スマホゲームでガンガン課金している人に向かって「そんなつまらないものに資源を投入するのはやめろ」といったところでプレイ中の人間にとってはそのゲームが非常にエキサイティングであるか既に中毒症状が出ているかで、まったくもって言うだけ無駄な感じにもとても似ている。

ゆえに工学者にはめいめい気が済むまで学問を追究してもらう他ないのではと思っている。

 

恋愛工学が教えてくれること

非恋愛工学者たちにとっての恋愛工学とはなんだろうか。他山の石、という言葉もあることだし、この現象から私たちが読み取れる事実を挙げてみる。
 
・数とはそれ以下でもそれ以上でもなく、セオリーに従えばそこそこ稼げるものに過ぎない。経験数の少なさをコンプレックスに思う必要がどれほどあるだろうか。
 
・工学者は失敗の原因を恋愛工学の修練度に求め、自身の資質には求めない。ならば成功(レベルの高い女性を得ること)も彼ら自身の資質の証左にはならない。
 
・これだけ数をこなして多くの女性にエンカウントした工学者たちが顔、スタイル以外に女性を判じる重要な基準を新たに発見したかというと、そうでもないようだ。人は見たいものしか見ない。だからこちらも見られることを気にせず好きなように生きていい。
 
・自信がある人と自信があるように振る舞える人は違う(当たり前すぎるが一応)。
   
・行列のできるラーメン屋になぜ行列ができているのかは入ってみないと(あるいは入ってみても)わからない。世の中にはうまいラーメンを作らずに行列を作るテクニックがある。客の立場でできることは、他人のレビューより自身の味覚を優先すること、行列に並んだ対価が味で支払われないこともあると知ること、まずいと思った時点で迷わず退店すること、くらいか。なにより、行列に並ぶ判断をしたのは自分であることを忘れてはいけない。
 
・生身の人間を相手にする物事を論理のみで纏めあげることは、知性的であるだけでは難しい。人の話を聞かないことがもっとも重要である。
 
・物事を堂々と言い切ることのできる人間にカリスマ性を感じてしまうと、いつのまにか宗教に入信していることがある。
 
…これだけ多くのことを示唆してくれるのだから、外野としても目が離せないのは仕方ないことだろう。
 
私には食い逃げ犯を走って捕まえる足もなければ、ボランティアで炊き出しをする気力もなく、彼らを唸らせ金を払わせるほどの料理の腕もない。
だが自らが手にしているものが最上の学問であるという自負が彼らにあるのなら、最後にそれは否定しておこう。
「あんたには美学がなさすぎる…」
 
【関連記事】
男が女をリードしなければならない、というこの社会に苛立つ人にはこちらのトピック。

 

tsutayuri.hatenablog.jp

 

幸せや成功を晒すことには意味がある

先週、テレビ放映された森三中大島さんの出産映像を観た。

(半日間叫び続けた私の出産と比べて)非常に穏やかな出産だったので驚き感心したのと、演出過剰でなく且つ大仕事感が伝わってくるところがいいなと感じた。
 
この放映が予定された際、「ネットでは否定的な意見が殺到」という真偽のわからない記事が出た。いろいろな意見がありそうな中で「産めない女性に対する配慮がない」という意見が記事のタイトルに引用されたことには正直「またこういう煽りか…」と感じてしまった。
この放送を観たくないという意見があるのは別におかしなことではない。何がいやかって、「産めない女性が産める女性に『配慮がない』と怒る、そういう妬みの存在を感じさせる文脈は人々の興味関心を惹くだろう」という前提で記事が書かれているということだ。反対意見の多数を占めそうな「出産は生々しいから見たくない」を差し置いてこれをタイトルにするあたり、妬みという感情が人目を引くことを期待して書かれていると感じる。この記事を「女の嫉妬は怖いなー」とニヤニヤ眺める層すら当然想定されているのだろう。
 
もう『人は自分ができないことをしている人を妬むのが当然である』という思考をベースに結婚や出産や仕事、つまり人生の選択をあれこれ語るのはやめないか。幸せや成功を語ることを過剰に控えさせる空気は無くさないか。でないと私たちは自由な社会で不自由に暮らし続けることになる。
 
幸せや成功を語ることを過剰に抑圧することは持たざる者への配慮になるのだろうか。
 
配慮という名目で価値観の押しつけをしているケースは多い。「これを手に入れられない人間は配慮されるべき人間だ」という決めつけだ。それは配慮する相手を傷つけないどころか一方的に「かわいそうな人」と認定することになる。
もちろん過剰に幸せ(だと自分の価値観で判断していること)を自慢するのも価値観の押しつけである。「結婚はいいよ~、なんで結婚しないの?」といった相手固有の状況や価値観の存在を一切想定しないような言動はさすがに無神経と言われても仕方ないかもしれない。でも「未婚のあの人には、私の幸せな結婚生活について語ってはいけないのだ」といった”自重”もどうなんだろう。自重していると相手に伝わりにくい分マシかもしれないが…。
バランスが難しいが、「私は人を傷つけないよう気をつけている」という自負から失礼な”かわいそうな人認定”をしてしまう罠は、なまじデリカシーがある人ほど陥りやすい。
 
さらに危険な罠は、自分で自分をかわいそうな人認定してしまうことである。
成功した経営者、好きな仕事をして自由に生きる人、新しいビジネスを掘り当てた人…こういう人たちに成功の理由を尋ねておきながら、いざ彼らの歩みを知ると「そんなのは能力のあるひとにしかできない」「恵まれているから言える」などとつまりは「成功をひけらかすな」という旨のバッシングをすることは自分自身へのかわいそうな人認定の最たる例だ。その人と同じになれない自分に配慮しろ、と言ってしまっているのだが、それは自分への呪詛となって跳ね返り劣等感をさらに深めることになる。
 
そしてもとよりホンワカした幸せよりも熱を帯びた怒りや嘆きの方が人々に伝搬しやすい性質があるのに、これ以上幸せを封殺したらどうなるのか。
たとえば、20代未婚女性が「家庭と仕事の両立は大変そうだと思うか」という問いに9割以上がYESと回答しているというトピックを見た。これは確実に当事者たちの「両立がいかに難しいか」「国や社会のこういうところが問題だ」という声が無数に溢れている結果だ。
怒りや嘆きは問題解決に必要なもので、こちらを封殺してもいけない(私も関連のエントリを書いたりしている身で言い訳がましいが)。だがそれだけでは、当事者はもとよりその外縁にいる人たちが恐れをなして希望や意欲を失ってしまう。両立が上手くいっている家庭からの「うちはこんなふうにできていて満足」という声や片働き家庭でも「このスタイルに納得していて幸せ」という声が挙がったなら、それはモデルケースのひとつとして共有されれば良くて、間違っても「実現できない家庭への配慮がない」「条件の恵まれた立場を自慢するな」などと言って口を塞ぐべきではないのだ。
 
万人が同じ形の幸せを手に入れられるわけではないし、万人が成功する手法なんかあるわけない。そんなもの探しているうちに人生は終わってしまう。
世の中にはいろいろな道があり、むしろ誰かと違っていてもと大丈夫なんだと知れることがいろいろな人の成功談を聞くメリットで、それを隠しおけと言うことは社会にある選択肢を見えづらくしろと言うことになる。だから発信力のあるメディアが妬みという感情を利用して人目を引き、その結果「やっぱり幸せをおおっぴらにしたら叩かれるものだよね」という空気を作ってしまうのは社会を生きる私たちにとっては損失なのだ。
 
選択は常に選べない選択肢の発生を伴う。もしも自由が欲しいなら、そのことに慣れる必要がある。
情報を受け取る側であるときは自分と違う選択をした人の存在にザワつかない強さを持ちたいし、情報を発信するときには安易なやっかみや揶揄を口にして人目を引くような真似はしたくない。それこそを配慮と呼びたい。

こんなことを言っている私も、仕事を辞めた直後は子持ちで共働きを実現している人を見ると自分よりも「正しい」気がして劣等感に苛まれたし、なんなら「共働きが当たり前となった今の時代…」という文章を見るだけで自分は「当たり前」から脱落したのだと勝手に落ち込んだ。
でも、それではせっかく選んだ自分の道を前に進めない。人の選択に心乱されない強さを身につけるのは自分のためだ。

幸せや成功を語ることには大きな意味がある。
誰かを勇気づけ、導き、気づきを与え、可能性を示す。
妬ましいという感情すらうまく扱えば向上心や問題意識に変えることができる。
それに自分の進む道がこの先思いもしない道につながる可能性もあるのだから、自分とは違う世界にいるように見える他人の幸せだってむやみに遠ざけたり否定しては損だ。道標となる幸せのサンプルは少ないより多い方がいい。

恵まれない自分には他人の幸せを喜ぶ余裕はない、そう思って人は恵まれた者に石を投げるのかもしれないが、他人を認められないというのは自分を認められないことと直結していて実はすごく辛いことだ。ありふれた表現をすれば、嫉妬は麻薬のようなものである。手軽な高揚感と引き換えに我が身を蝕んでいく。
「ここに麻薬がありますよ!」と叫んで注目を集めるようなことは、そこが公共の場であれ自分ちの庭先であれ、恥ずべきことだ。それをためらわず実行する人間の目などに"配慮"して沈黙する必要はない。

と、妬み嫉みといったネガティヴな感情を排除して思考した結果、身も蓋もエンターテインメント性の欠片もない正論が書き上がってしまうことがわかり、やはりメディアの作り手としてはドラッグの一発もキメたくなるのだろうと思いつつ、それでも真摯な視点とエンタメ性を両立させる優れた書き手も多くいるわけで、書き手も受け手も言い訳なしで己を鍛えたいなと正論で終わろうと思う。

兼業主婦と専業主婦のワークライフバランス

 

ワークライフバランスのイメージ

ワークライフバランスについて、このところ関心を持ち続けている。
契機は前職在職中にワークとライフがまったくバランスしていない兼業主婦生活を送ったことだ。その後妊娠、思うところあって退職、専業主婦となった今。主婦生活の充実と仕事の再開など将来の構想のためにも、ワークライフバランスという観点は欠かせないと感じている。
 
ワークライフバランスという言葉が世間に浸透してきたのはすごくいいことだが、この言葉の一般的な捉えられ方に対しては少し違和感を覚え始めた。
 
一般的なイメージとは、おそらくこんな感じだと思う。
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(※カラーバーの面積は時間、手間に加え疲労感や充実感など本人の実感を加味したもの。)
 
仕事(賃金労働)=ワークをする時間とそれ以外の生活=ライフの時間のバランスをうまくとろうという認識があるが、こうした区分だけでは少しざっくりしていて実感とズレてくる。仕事か家庭かどちらかに大きく偏っていても満足できている人もいれば、どちらにも同じくらい時間を割いているのになんだかしんどい、という人もいる。
 
無論、今の社会では仕事時間とプライベート時間のアンバランスが最大の課題であるから、従来の意味を否定したいわけではない。それに、まずはワークライフバランスという概念の浸透と実行が第一なので、あまり言葉を複雑にして広まりにくくするつもりもない。
これから述べる私が考えた定義でこそこの語は使われるべきだ、というのは本エントリの趣旨ではない。ここで違和感を指摘するのは、上記のようなおおまかなイメージでは見落とされる課題があり、それらが実に多くの人を悩ませている気がするからだ。
 

ワークライフバランスへの二つの違和感

私の中のワークとライフの定義はこれだ。
 
ワーク=やるべきこと。誰か(自分でも可)のために必要なこと。
ライフ=やりたいこと。自分の心を動かすこと。自分を肯定する気持ちを持つこと。
 
つまりワークは金銭活動か否かを問わない。そしてライフは自分がやりたいこと、好きなことならわりとなんでも当てはまる。小さいこだわりとか、しょうもない娯楽でもいい。自分が本当に好きなら。
仕事に使命感をもっていたり、家事に楽しみを見いだしたり、好きなことを勉強したり、ひとつの行動の中にワークとライフが混在することも当然ある。
そしてどちらも本人が「やるべし」「やりたい」と思うことが基準なので、スタンダードはないし、他人が押し付けてはいけないし、仮に同じ環境で同じことをしていてもワークライフバランスの実感は人により変わってくる。
 
この前提でもって捉えると、従来のワークライフバランス像に違和感が出てくる。
ひとつめの違和感のもとは、家庭内での無賃金労働をワークとみなせていないことだ。

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個人の生活は自動的に維持されるものではなく、その運営には無賃金労働が必要になる。家事や育児の中には自分の生活をエンジョイするというライフ的な要素の他に、やらなくてはならない作業、考慮すべき事柄などがあり、これはワークである。

こうすると、仕事とプライベートを半々の面積で描いた上の図においてもワークがかなりライフを圧迫して見える。

長時間労働が根付いた実際の社会生活においては言わずもがなで、「ワークライフバランスっていうよりワークワークバランスだよ…」という嘆きも散見される。

そこでもうひとつ、仕事におけるライフの存在も可視化しておかなければならない。

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なんだかがんばれそうな図になってきた。

このライフはたとえば、やりがいや自己肯定感、仕事の面白みや同僚とのつながりなどが当てはまる。(家庭内のライフも同様だ。)

「好きなことを仕事にする」というのは甘い考えであるかのように言われるが、ワークライフバランスの実現という点に絞れば非常に合理的なことがわかる。

もちろん、仕事は外貨獲得のためと割り切り、家事などを極力省力化して相対的にライフを増やす、というのもありだ。

どちらもそこそこにというのも当然あり、ハードな仕事に燃えるのもあり。

要はなんでもありだ、自分の人生はこの世にひとつなんだから。

 

このように、仕事にもプライベートにも(もちろんその他のあらゆる場面にも)ワークとライフが混在しており各自が自分に合わせたバランスを追求するという前提で議論がされてほしいのだが、実際はそのあたりを蔑ろにされて誰かが辛い思いをするケースが多い。

 

仕事と家庭の両立における認識のズレ

最たる例が仕事と家庭の両立をめぐる議論だ。
言うまでもなく、日本には長時間労働文化と仕事最優先主義、お客様第一主義(労働者はギリギリまで尽くす)にどっぷりなので、簡単にこんな具合になる。
 

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家庭に注げる時間が劇的に減っても、家庭のワークは劇的には減らない。

そのことが家庭のライフを圧迫する。具体的には、

・自分の時間や家族との時間が取れないことによる充足感の低下

・家事や育児の負担感の増大、うまくこなせないことによる自己肯定感の喪失

・ベランダの鉢植えをすべて枯らし、それを棄てる気力すらなく、窓の外を見て心がすさむ(以前の私)

などがおこる。

 

それでも仕事が充実していればなんとかなる、 好きでやってる仕事じゃないか。

そんな励ましはあらゆる人に果たして有効だろうか。

負の感情はしばしば連鎖する。

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やりがいや自己肯定感という仕事のライフは、私生活がすさんでくるとつられてしぼみ始めることが多い。「こんなにボロボロになってまで、自分は何をしてるんだろう…?」と。

ライフは、たとえやっていることが同じでも心が元気じゃないと途端に輝きを失うのだ。そしてすべてを義務感だけでこなしているような感覚に陥ってしまう。こうなるとワークアンドワークである。きつい。

 

(ちなみに上図の”仕事”と”家庭・プライベート”を入れ替えると、時短でうまく仕事を回せない、マミートラックから抜けられない、といった悩みで毎日のやりがいが失われていく状態を表す図になる。)

 

働き方が硬直的な社会で、家庭内のワークを担う人の多くが悩んでいることは想像に難くない。けれど「時短や育休は周りにとって迷惑」「家庭を優先する人は仕事を甘くみている、仕事の第一線から降りている」といった見方をする人もいる。

そういうことを言う人は、悩める人が日々どんな生活をしていると思っているんだろうか。

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おそらく、こんな生活だと思っている。

なんだ、いけるんじゃん?みたいな。

好きでやってるんでしょ?みたいな。

もっと本気出せよ?みたいな…。

 

家庭内のワークを無視するな。

どんなに好きでやっている仕事にも大変なことはある。

好きでやっている家庭だって同じだ。

好きでやっている仕事は直接の顧客の役に立ち、間接的に社会全体を豊かにする。

好きでやっている家庭だって同じだ。

 

家庭内のワークの無視・軽視はいろんな人を軽く扱うことにつながる。

兼業主婦、ワーキングマザーを「仕事を最優先しない二級労働者」と扱う。
家庭のために周りと違う働き方をする男性を「仕事の競争から降りた」と決めつける。
独身者だってそれをプレッシャーに感じ、硬直した働き方に縛られて将来を描きにくくなる。
そして専業主婦・主夫を「これといったスキルも経験も積んでいない人たち」と見くびり、立場を尊重しないばかりか、労働市場への参入障壁を徒に高くしている。
 
…これ、誰得?
 
家庭内ワークの無視・軽視で社会が劇的にうまく回っているならともかく、現状は逆だろう。一刻も早くやめた方がいいと思う。
 
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さて、もう一度この図である。
 
このアンバランスな状態の解決策として、「家庭内のワーク=家事育児」ととらえ、それを外注すればいいじゃないか、という話が真っ先に出る。だがそれだけに解決を頼るのは不十分だ。
もちろん、保育園や家事サービスの利用や祖父母の協力を得ることは現実的な対応策であり、各家庭で必要に応じて選択することだ。外注で新たな雇用が生まれることも悪くない。
 
だが、家事育児は100%ワークでできているのではない。
その中にはライフがある。自分でつくった食事がおいしい。子供と過ごす時間が楽しい。そんな人それぞれのライフがある。だから、自分の手と他者の手をどこにどう振り分けるかは行為の中のワークとライフの配分を知っている本人の采配によらなければならない。それがバランスをとるということだ。
 
それを想像せず「仕事の妨げになることは誰かに預けてとにかく仕事に注力しろ」と要求するのはあまりに横暴である。仕事の量や働き方を見直して問題解決を図ることを放棄する怠慢と言ってもいい。
図の中の点線を左へ動かすこと、必要に応じて何度も左右に調整できるようにすることが急務だ。
 
家庭内のワークの軽視は、家庭内のライフの軽視にもつながっている気がしてならない。この問題を次項で詳述する。
 

専業主婦のワークライフバランス

図中の点線右側だけを取り出すと、専業主婦・主夫の生活を表すものになる。ワークとライフが一対だけになって、ぐっと自由がきくように見える。
しかし専業主婦をやってみて、この領域にもバランスを失わせるいくつかのトラップがあると実感する。現在の私はだいぶトラップをよけて自分で自分のバランスを取れるようになったと思うが、問題を可視化するためにこれまで感じたトラップを書き出してみる。
 
・ワーク軽視によりライフが奪われる
「家事や育児は誰にでもできる、大した能力が要らない」などと貶められる。能力が要らないのなら誰も家事や育児で悩まないはずだが実際にはそうではない。「誰にでもできる」とは「参入障壁が低い」というだけのことで、能力の有無とは話が別だ。高い参入障壁を越えることでしか能力を証明できないと考えることの方が問題ではないか。
家庭の運営には誰かのワークが不可欠であり、それを担うことだけを特別に揶揄されるいわれは無いのだが、「能力のいらないつまらない仕事」と言われれば自信は失われる。これはやりがい、自己肯定感というライフの剥奪だ。
 
・ライフの必要性が軽んじられる
他者によるライフの剥奪にはもうひとつ種類があって、それは「主婦なんだから自分の楽しみは諦めろ」という圧力である。子持ち主婦の場合は「優先すべき子供がいるのに」、そうでない場合は「子供がいなくて楽してるのに」と自分の楽しみを追い求めることが非難される。
 
前項と同様、非難する者の根底には「そんなにたいしたワークをしていないんだから」という意識があることが多い。
あるいは単に「そんな暇があったら働け」というやじりもある。空いた時間はすべてワークに回せというモーレツ思想である。ライフがあってワークがうまく回るという好循環の存在に意識が及んでいない。ライフを楽しんで、さあワークやるぞ!っていう気持ちは誰にでも必要だと思うのだけど。これは仕事(賃金労働)の場面でもよく見られる問題だ。
 
・ワークを補填しにくい
家庭内のワークの量は一定ではない。家庭の状況により、もっとワークを増やせる、増やしたいと思うことがある。そこで家庭の外、仕事のワークを手に入れようとしたとき、なかなか納得のいくものが見つからないケースがある。これまでの家庭内のワークがうまく評価されない、家庭内のワークと両立させる前提の仕事が限られていることが大きな原因となっている。
ママ起業ムーブメントは明らかにこうした問題を背景とした動きだ。
 
・ライフとワークのすり替え、押しつけ
 こちらは少し毛色が違って、家庭内ワークの重要性をいったん認めた上での圧力だ。
「家族のために自分のことは我慢しろ(ライフの否定)、そんな暇があったらこれをやるべきだ(ワークの押しつけ)、それが愛情だ(押しつけたワークをライフ化することの押しつけ)」
簡単に表すとこんな感じである。
押しつけられるワークの具体的な例を挙げれば、料理は手間暇かけたものしか認めない、幼稚園保育園のバッグなど子供の持ち物を手作りすることの強制などがある。
 
料理も手芸もそれ自体悪いことではない。でも強制してはダメだ。
はじめに定義したように、ワークは自分がやるべきと決めるものだからだ。自分の頭で、自分と家族の状況や適性、時間の余裕にあわせて判断しなくてはならない。
 
他人が押しつけたもので生活を埋めることは、バランスを司るハンドルを他人に預けることだ。そして他人はハンドルを最後まで握ってはくれない。
 
こういう押しつけは、行為を純粋に楽しんでいる人にとっても嫌なものだ。
私は料理と洋裁が趣味なので、上に挙げたことをやれと言われればやれる(その時の状況にはよるが)。
けれど、自分がそれをこなすことが、強制を負担に感じる人にとっての圧力になるように思えて純粋に楽しめなくなる。
「ほら、やってる人もいるよ?なんでやらないの?」みたいな言い方って、できる人もできない人も居心地が悪い。
またまた、誰得?という話だ。
 
こう言うとこんな反論が挙がるかもしれない。「家庭のワークを尊重しろと言いながら、ワークが大切だからやれと言ったら反発する。それって甘えなんじゃないの?」
 
ここで言いたいのは、必要なタスクを放棄していいということではない。充分な食事を出さない、子供に適切な持ち物を与えない、となると話は違う。
でもどの程度手間をかけるか、何に重点を置くかは本人にしか決められないだろう、と言いたいのだ。価値観、得意不得意、時間やお金の都合などは人によって違うのだから。
 
料理という同じ行為でも、ある人にはワーク3割ライフ7割の趣味的な行為になり、別の人はワーク10割のほぼ義務感のみに支えられた行為になる。それをどうこなすかを自分で決められなければ、ワークライフバランスは崩れ、余計な疲労が溜まるだけなのだ。
 
 
・トラップを図にすると…
 
 

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まとめるとこういう感じだ。

ライフが引っ込み、紫色のワークなのかよくわからないタスク=押しつけのワークがねじ込まれようとしている。

このタスク、兼業主婦であればまだ「仕事もあるのに無茶言うな!」と跳ねのける明確な材料があるのだが、専業主婦の場合「専業なんだからここまでやらなきゃダメかも…」と受け入れてしまいがちだ。剥奪された自己肯定感というライフのスペースにすっぽりはまってしまうのだ。

(兼業でも、家庭に時間を割けていない罪悪感からトラップにかかるという別の危険はありそうだ。)

 

専業主婦が家庭でのワークを頑張ることは大事だ。

けれど何をどうやるかは本人の主体性を尊重してほしい。

主体性が欠けると、自分が何をやっているのか自分で表現できなくなる。

それは、専業主婦生活を自分のキャリアとして築くことの妨げになる。

 

図中のワークの左上を見てほしい。

これまでの図にあった"仕事"エリアとの境目が、点線からトラ模様のテープに変わっている。前述したように、家庭から仕事への参入障壁はやたらきびしいものとされているが、家庭生活を主体的に語れることがこの障壁を越える助けとなるように思えるのだ。

 

専業主婦生活を続けていく人にとっても、自分のワークライフバランスをとっていくことが生活の充実につながるはずだ。トラップに負けず、自分のキャリアを邁進していこう。

 

上記に挙げたトラップは、家庭内のワークを軽視するものだけでなく、家庭内のライフの軽視を含んでいる(つまるところ、家庭という領分の軽視なのだが。)

最後に、家庭内のライフの軽視が招く罠について書きたい。

 

ライフは先延ばしにできるのか

子供を持ちながら仕事や趣味など自己実現的な活動をすることについて、「小さい子供がいるうちは諦めろ」という意見がある。子供を適切に預けたり、子供の負担にならない程度にと考慮した上で行動しても、そういう思慮があることを想像せず、一様に諦めろ我慢しろと言われることがある。
 だがそれとは対照的に、過干渉な親や、子供が育って手を離れた親には「自分の楽しみを持て、狭い世界にいるな」というご忠告が…
 
これって、学生のあいだは「遊びや異性のことなんかいいから勉強をしろ」と言っておいて、妙齢になると「結婚しないの?なんか趣味とかないの?」と言われるのと同じ構造だ。
 両者に共通する問題は、ライフを先延ばしにできるものと考えていることだ。
 
仕事には決めどきがあるから、子供のことに全力を注ぐ時期、ひたすら職務に打ち込む時期や入試直前の追い込みなんかはあるだろう。それも自分の判断でやることだが。
 
だが周囲が我慢を要求しているあいだに、ライフをつくるための感情や自尊心、気力、人との関係が失われてしまうことはないのだろうか。
先延ばしにした楽しみを、将来と今、同じ気持ちで楽しめるなんて誰が保証できるのだろう。
 
おそらく先延ばしが効かないと思われる例をひとつ挙げてみる。

 

こういう現象は本人も家族も報われない。

家庭内のライフを軽視する傾向はいろんな犠牲者を生んでいるのではないか。

 

まとめ

いくつかの図を描いてみて問題に感じたこと。
・仕事と家庭の間の点線が自由に動かなさすぎ
・ワークとライフの量や質を他人が決めすぎ
・ワークは簡単に減りにくく、ライフはすぐ削られる
 
これらがワークライフバランスを損なう原因ではないだろうか。
自分で自分を尊重することは第一の打開策だ。ワガママなんかではない。
より良いバランスをとることで自分と周りを幸せにしよう。
 
100%私のライフとして書かれた小理屈が、誰かの助けになる幸運を祈って。
 
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女と女と男の戦い方

女対女はそろそろ終わり

最近、女同士の格付けや派閥争いなどのいわゆる「女の敵は女」的なものへの共鳴が少し弱まっている風潮を感じる。

 
女同士で対立する構図がきれいさっぱりなくなっているわけでは勿論ないのだけれど、「どっちの女が優れているか」という応酬に終始せず「なぜ女同士が分断され対立させられるのか」「なぜ不毛さに気付きながらもお互い分かり合えないのか」「立場や環境が違う女同士で手を取り合えないのか」といった問題意識を含んだ議論が増えてきている。
 
これは現実の女性達が発する意見もそうだし、フィクションの世界にもそんな傾向がある。
 
例えばTVドラマでは「問題のあるレストラン」はいろんな状況に置かれた女性達の共闘を描いていたし、「マザーゲーム 彼女達の階級」はタイトルに反して階級争いのゲームよりも個々の家庭事情に悩み苦しむマザー達の姿に焦点が当てられている。
階級争いといえばマウンティングという言葉もドラマ「ファーストクラス」など女同士の争いに言及した作品から広まったが、既に性別関係なく行われる行為だと認識されており「女の敵は女」カルチャーの印象は薄れたように思う。
 
現実の世界でも女性達は無益な争いを減らしたいと思っている様子だ。
代表的な争いである「専業主婦vs兼業主婦」「既婚vs未婚」「子持ちvs子無し」においても、場の話題がそうした流れになると「選択には個人の事情も関わるしどちらが上とか無い」「むしろどうして対立させられなきゃならないのか」と沈静化させる意見を発する人は少なくない。
 
これはどう見ても良い風潮なのだけれど、その背景にあるものを思うと少しだけシリアスな気分になる。
 
端的に言うと、私達は女同士で争っている場合ではなくなったのだ。
その大きな理由は言うまでもなく生き方の多様化が進んでいることだ。
 
選べる道が増えたのはいいが、選べない道も増える。
選ばなかった道を行く人はまぶしくもあり、ときに辛そうでもある。
どの道が勝ちかなんてよくわからなくなってきた。
一本道なら、道を歩く女の中で一番を目指せば一番幸せになれる、そう思えたのだろうか。
 
結婚、仕事、出産、自分の時間、家族との時間、社会貢献、自己実現
何かを諦めるのも辛ければ、全てを手に入れるのもキツい。
そもそもこんなに多くのものを追いかけなきゃいけないなんて誰が決めたのか。
自分が持ちたいものだけ持とう、そう決めたそばから外野の野次が飛ぶ、「これを持たないなんて信じられない!」
 
ヤバい、私が辛いのはどう考えても隣の女のせいじゃない。
なぜなら彼女も私と同じ場所、あるいは別の場所に傷を抱えているのだから。
この世界の背後にもっと大きな敵がいる。
仕方ねえ…力を合わせてそいつを倒す‼︎
 
という具合に女性達は手を取りあおうとしているのではないだろうか。
さながら最大の敵魔人ブウを前に合体によるパワーアップを決意した悟空とベジータのように。
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女対男ももうやめたい

女の敵は女でないなら、本当は誰なのか。
それは男性である、という認識もまた過去のものになりつつある。
男性の多くも疲労と閉塞感に悩んでいるのは明らかだ。
これまでの男性社会が育んだ企業文化や仕事至上主義である、というのが今の気分にもっとも近いかも知れない。
これらが柔軟な生き方をすることを妨げているのは明白だ。
ではなぜ多くの人がおかしさを感じながら改善が困難なのか…敵の本質はこのあたりにありそうだ。
 
こう言うと男性には頷けない部分もあるかも知れない。
いやいや、依然として女の敵は男だと思われてるんじゃないか、と。
女性が不満を訴えるときは大抵男性への批難や要求がセットになってるから正直聞くのが辛いだろう。
既得権益に立ち向かうのもしんどいけど、既得権益を持ってるとされる立場でいるのもしんどかろう。
 
社会の改善は社会に関わる全員の問題なのに、女性がやたらと開拓者であれと言われるアンバランスは男女双方に不幸を呼んでいる。
 
例えば企業内では他の社員が長時間労働を続ける状態が改善されないまま、結婚や出産をした女性社員は「新しい女性の働き方を実現してほしい」と言われる。
そう言ってくれるだけマシという声もあろうが、言い換えれば「他の人は今まで通りの働き方だけどね」ということ。一人で他と違う動きをするのは実際やってみると障害が大きいし、男性や独身者には新しい働き方はないのかよということにもなる。
仕事上でも精神的にも、アンバランスが摩擦の元になる。
 
この状況に置かれた女性の心境を例えるなら、地球人よりも地球にフルコミットして戦い続けているサイヤ人のそれである。
サイヤ人(女性)が戦闘民族(既存の文化に対立する側)だからって戦え戦えって(産めとか育てろとか働けとか輝けとか)煽り過ぎだっつーの!それよりちょっとは地球人(男性)連れてこいよ、今地球(社会)の話してんだよ、『チャオズは置いてきた』じゃねーよ!」
 
一方男性はというと、戦いに同行してくれる戦士やたまに仙豆を届けてくれる人もいれば、「スーパーサイヤ人になれる(結婚、出産によるキャリアチェンジができる)強いやつが戦えばいいだろ…地球人にはそういうのねーから…てかサイヤ人いるから地球にヤバい敵がくるんじゃね?」と考える人もいる。
 
まずは全員落ち着こう。話はそれからだ。
サイヤ人がいなくても敵はもうずっと昔から地球に送り込まれていたのだ。
そして地球人はサイヤ人になれないし、サイヤ人の中でもスーパーサイヤ人になれる者となれない者がいるが、必要なのは彼ら彼女らも含めた全員の力だ。
魔人ブウ編を参考に結論を導くなら、みんなの元気を集めて元気玉を打てば勝てる。
つーかそれしかない。
 
何が言いたいかというと、目指すべきは女性が輝く社会というより男女全員が輝度を調整できる社会であって、それには性別や環境問わずみんなが新しい働き方を許されるようでないと前に進めないということだ。
 

技はいろいろ、地球はひとつ

生き方は本来多様であるべきだが、いざ自分が人と違う道を行くと不安が押し寄せる。
社会の変わらなさの原因は私達自身の変われなさが積み重なったものかもしれない。
そこは「自分はこういうふうになりたい」という気持ちを頼りにそれぞれが帆を進めるしかない。
 
人にはいろんな戦い方がある。
 
私は前出の画像を撮るために魔人ブウ編を読んでいて、最高にかっこいいヒーローに出会ってしまった。
それはミスターサタンだ。
彼は戦闘に加わるほど強くないわりにビッグマウスで浅はかで体裁を気にするという愛すべき道化である。
だが彼のすごいところは、弱いくせに戦いの場に最後まで居座り、戦局を見続けたことである。
そしてとうとうブウを倒す元気玉をつくるシーンでは思いがけない大活躍をするのだ。
彼がもし「スーパーサイヤ人ではない自分には何もできない」と傍観していたら地球は消滅していた。
大切なのは、どんな立場にあっても自分がやらねばと考えたことを勇気を持って実行することなのだ。
 
黙々とページをめくりミスターサタンの勇姿を見ているうちに私の頬を涙が伝った。
「マジでみんな頑張って地球を救おう…」
 
私は前の職場で妊娠中に体を壊したことをきっかけに、社内の長時間労働文化と自身の仕事への適性、家族との過ごし方などを考えた結果退職し、主婦をしている。
スーパーサイヤ人になる修行をしていたら体の限界がきて気絶してなぜかカリン塔に運ばれて呑気に仙豆を食っている状態である。
そんな戦闘力の低い私だが、不安に流されず、戦局から目を離さずに自分の次の一手を練っていきたい。
 
なお、スーパーサイヤ人の修行の厳しさについては次の書に詳しい。

 

 

 

「育休世代」のジレンマ 女性活用はなぜ失敗するのか? (光文社新書)

「育休世代」のジレンマ 女性活用はなぜ失敗するのか? (光文社新書)

 

 

 

 

 
そして地球人の苦悩、男性学についてはなかなか広がらないが、ついに『男がつらいよ 絶望の時代の希望の男性学』という本が登場した。こちらも近々レビューを書きたい。
 
 
ちなみにドラゴンボールの中で最強の地球人だと思うのはブルマだ。
彼女の作成したものを上回る精度のドラゴンレーダーは地上になく、彼女がいなければドラゴンボールは使えず誰も生き返れないのだから、ブルマは最強である。
でも戦いにはほとんど参加しない。
こういう戦い方もある。

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セーラームーンを読んで男性の戦いについて考えた。