輝く女性と少女漫画脳
私も少女漫画脳だった!
子供の頃はどちらかというと少年漫画が好きだった。ドラゴンボールやらスラムダンクやら幽遊白書やらを見て育った。少女漫画も読まないわけではなくて、小学校低学年のうちは毎月『りぼん』を買っていたし、少女向けアニメも見ていた。ただ少女漫画の恋愛要素にほとんどのめりこめなかった。
少女漫画の「かっこいい男の子」は非常に気が利いている。女子の心に刺さることを刺さるタイミングで言ってくれるし、女子と同じくらい恋愛のことを深堀りして考えている。そんなわけないだろう、と思った。優しいキャラにしても無口キャラにしても俺様キャラにしても、彼らの対応は的確すぎる。感情の言語化がうますぎる。そのあたりが女子側のご都合主義っぽくてかえって好きになれなかった。
ちなみに今は「リアリティどうこうじゃなく、フィクションはフィクションとして楽しむものだ」と理解できる。おそらく子供の私は現実の男性と恋愛できない立場ゆえにフィクションにリアルを求めすぎていたのだ。
こんなふうだから「私は少女漫画脳ではない」と思っていた。
少女漫画脳とは、少女漫画に出てくる男を理想として現実の男性とのギャップを受け入れられないこと、それだけを指すと思っていた。実際「少女漫画じゃあるまいし」という言葉は「そんな完璧な男なんていないよ」「恋愛に夢を見すぎだよ」という文脈でよく使われる。
だが最近ある少女漫画を読み、もう一つ別の種類の少女漫画脳があること、私もそれにどっぷりはまっていたことを思い知らされたのだった。それは『少女漫画の主人公のように光る才能を発揮して自分のアイデンティティを皆に肯定される仕事を手に入れた上にそんな自分を理解し支えてくれるパートナーにも出会い、仕事も愛も手に入れることこそが女の子の最上級HAPPY!脳』である。
『ご近所物語』で描かれた女の子の完全形態
その作品とは『ご近所物語』だ。ざっとまとめると、次のような内容である。
・主人公・実果子はデザイン系専門の学校に通う高校生。夢は洋服のデザイナーになって自分のブランドを持つこと。その突出した才能と情熱は難なく周囲に認められ、学内で活躍、学長推薦によりロンドン留学に旅立ち、後年はデザイナーとなり念願の店を持つ…というサクセスフル女子。
・同じ学校に通うツトムは実果子の幼なじみでお隣さん。実果子、ツトム、その他数人で立ち上げたフリマサークルでの恋愛模様が描かれるが、2人はわりと早い段階で安定的なカップルとなる。本編ラストでは実果子留学のため遠恋に。その後の番外編では2人が結婚し、実果子は妊娠している。テンションの上下が激しく"素直になれない"実果子を基本いつもまっすぐに受け止めるツトム。
…本題の前にどうしても言いたいのだが、この"素直になれない"ってずるくないか。どんなにわがままでキツいことを言っても本当のあたしはそんなんじゃないの(で愛して)、素直に言えないだけなの(で察して)、本当は優しくて傷つきやすいの!(だからあなたが私にわがままでキツいことを言うのはナシだよ?)って、おい!やめろ!こんなふうに振る舞っても自分を受け止めてくれる人と出会って幸せになろうね☆みたいなドリームはやめてくれ!それ男も女もしんどくなるやつ!もはやドラッグ!あなた人間やめますか?少女漫画やめますか?
ああ、つい!マーク連発でまくしたててしまった。フィクションとして楽しむべきと理解したとか言ったくせに、ダメだ、まるでわかっていない…。さっきは達観した人ぶりました、すみません。素直になれないだけです。
本題としては、ここで描かれている実果子のあり方が
・仕事と恋愛のどちらも手に入れるパワフルでハッピーでパーフェクトな女性像の典型であり、
・私たちは未だにこうなることが至上という思いが抜けない少女漫画脳なのではないか
と問いたい。
厄介なのは、この作品に限らず少女漫画に登場する仕事が大抵デザイナーとか女優とか作家とかであり、会社員や公務員ではないことだ。代替不可能な才能や個性を世間に求められる立場であり、それゆえ家庭を持っても職場のペースについていかなきゃというプレッシャーもなく、ハッピーにマイペースに両立が可能だという夢を見せつけてくるのである。(実際はこれらの職業もそんなに簡単じゃないことは言うまでもない。)
少女漫画はいつしか、理想的な恋愛への憧れだけではなく、自己実現に直結するような仕事への憧れさえも少女たちに植え付けるようになっていた。近頃の少女アニメにアイドルものが多いのはその系譜であるし、一方で恋や仕事が思うようにならないリアルを描いたアラサー女子漫画が流行っているのはその反動である。
「女性が輝く社会に」という政府のスローガンは女性たちから兎角こき下ろされているが、それは私たち自身が誰よりも「輝かなければならない」と強く思い込んでいることの裏返しではないか。
輝かなくても燃え続けたい。
セーラームーン世代(アラサー女子)の正体はちびうさなのかもしれない
アラサー女子は憧れのセーラームーンになれたのか
ただ、物語の主人公であるセーラームーンとアラサー女子がそれほど似通っているかというと怪しい。むしろ私たちがシンパシーを感じられるのはセーラームーンの娘、ちびうさの方ではないだろうか。なぜならちびうさが抱えるコンプレックスはセーラームーン世代であるアラサー女子が抱える葛藤と痛いほど重なるからだ。
・地球を守るため敵と戦う壮大な使命(やりがいある仕事と能力)を持ち、
・タキシード仮面(ハイスペックで誠実な夫)とちびうさ(子供)も持ち、
・未来では世界を救ったクイーンとして世間からキャリアを肯定・称賛され、
・仲間のセーラー戦士たち(同僚や友人)にも恵まれ、
・その上、フワフワと長い髪、ミニスカートのコスチュームとそれを着こなすプロポーション、宝石をちりばめたキラキラのアイテムを携えて戦う姿は美しく、世界中の少女を虜にした。
こうしたセーラームーンの姿は良く言えば「憧れの女性像」だが、一歩間違えると「女性はかくあるべしという完璧すぎる理想像」となる。
そして私たちセーラームーン世代はそんな理想どおりの姿になれているかといえば…少し、いや、だいぶ自信がない。
一方でちびうさは「自分もセーラームーンのように強く戦い、美しい女性になって、タキシード仮面のような自分だけの王子様と愛し合いたい」と何度も願う。
そればかりか母のようになれない自分へのコンプレックスを敵に付け込まれて一時はダークサイドに堕ちる(闇の力でブラックレディという敵キャラに変身させられる)など、相当こじらせている様子だ。
あれ…もしかしてうちら、こっち側じゃね?
ちびうさがコンプレックスまみれな理由
ちびうさはセーラームーンの血を引いているのに、なかなか戦士に変身することができない。900歳を過ぎているのに、体は子供の姿のままで成長しない。世界を救うパワーの源、幻の銀水晶を使えない。母と違って仲間の戦士もいない。そして父のような理想の王子様も自分にはまだ現れない。ないないづくしである。
アラサー女子が人生を思い悩む理由
こうしたちびうさの「恵まれた不遇」がまたもやアラサー女子と重なる。
私たちは均等法が施行された頃に生まれ、総合職女性の採用も珍しくなくなった頃に就職し、そのことで育児休暇を取得する女性が本格的に増えてきた今では”育休世代”などと呼ばれることもある。
上の世代よりも恵まれた環境に生まれついたのは幸運だが、戦って権利を勝ち取ってきた経験があまりないまま過酷な戦場へ参入し、男性と同じ長時間労働、仕事と家庭との両立、課題が山積した現代の子育て環境、正規・非正規労働の格差…といった数々の強敵に突如遭遇し途方に暮れている。
おひとりさま、DINKSといった言葉が世間に浸透し、昔よりも社会の多様性が目に見えやすい気はする。だが結局世間が称揚するのは、やりがいある仕事・円満な家庭・欠かさぬ周囲への気遣い・疲れを感じさせない美しさ・前向きな姿勢…とすべてを備えたスーパーウーマンだ。選択肢は増えたけれど、正解はひとつのまま。それってかえって難問になっただけでは?思考回路はショート寸前だよマジで!
さて、ここまでは私たちにとってのセーラームーンを「現代で称揚される理想の女性像」と捉えて話を進めてきたが、彼女を「母親世代」と捉えたときにもうひとつの課題が浮かび上がる。それは旧世代の男性観と現代的な男性観とのダブルバインドだ。
ちびうさの理想の王子様はタキシード仮面、つまり自分の父親だ。だからその王子様が自分のものではないことをちびうさは知っていて、自分だけの王子様にはいつ会えるのかと思い悩んでいる。
母親世代から受け継がれている「男は女をリードするもの」という価値観から完全に解放されて恋人を探せる人は少ない。だがいざ付き合った後のことを考えると、現代は働き方や家庭での役割分担、そもそも結婚するのかしないのか、いちいち考え議論するべき岐路が多く、それはリード・被リードの恋愛観で結ばれた関係では対応しづらい。
そして対話は対等にできる関係だとしても、社会的ポジションとなるとまた話が違ってくる。バリキャリの範疇に入るような総合職正社員のワーキングマザーたちでさえも「自分と同じかそれ以上に能力ある人を結婚相手に選んだがゆえに、そういう夫に育休を取らせたり家庭優先の働き方を求めて"キャリアを犠牲にさせる"ことができない」といった悩みがあるのだから、この問題は根深い。(蛇足だが、夫の側にも「妻と同程度以上に"降りる"ことには抵抗がある、必要性を感じない」という意識が拭えないこと、実際問題として夫が降りることに経済的合理性がない社会システムであること、という要因がある。)
要するに、子供のころから形成された王子様像と現在必要とする男性像とに大きな齟齬が生じてしまっており、それには社会的な要因も大いに絡んでいるためになかなか抜け出せない。
そうしたわけでアラサー女子は「自分ではない人のための王子様」への憧憬を抱いたままで今まで見たことのない「自分専用王子様」を探して道に迷っている。ちびうさみたいに、いつでもベルを鳴らせば来てくれる美少年(注1)と巡り会えたらなあ!
禁忌の中に希望がある
とどめを刺すようだが、私たちは経済的な面でも親世代のような戦果はおそらく得られない。
強い敵をことごとくセーラームーンが倒してしまったあとの世界に生きるちびうさのように、高度経済成長やバブルという祭りが終わったあとの日本、人影も少なくなり、祭りに浮かれた人の群れが撒き散らしたゴミがそこかしこに散乱する社会に私たちは生きている。安定した右肩上がりの収入や大企業正社員という威光、そうした旧来的なパワーに限っていえば親世代を超えることは難しい。このあたりの葛藤はアラサー男子も大いに持っているだろう。
それじゃあ希望はどこにあるのかというと、それは私たちが新しい時代を生きる新しい戦士であることだろう。
これまで述べたコンプレックスや苦悩は、旧来的価値観を捨てきれないがためのものだ。苦しみながら価値観の更新をおこない、新しい価値のあるものに出会うことこそが私たちの戦いである。そして戦士になるには覚醒が必要だ。
ちびうさがセーラー戦士に変身したきっかけは唯一の親友・セーラープルートの死である。またその後も20世紀で出会った友達・土萌ほたる(セーラーサターン)の死によってスーパーセーラーちびムーンへの進化を遂げた。
実はふたつの覚醒に共通しているのが、ちびうさがどちらの友人とも「行ってはいけないと言われた場所」で出会っていることだ(注2)。
禁忌を破り、自分の心のおもむくままに従った行動がのちに彼女を覚醒させた。
やってはいけない、前例がない、うまくいくかわからない、こんなんじゃバカにされる。そうした様々な言葉に邪魔されて自分自身が望む選択をためらっていないだろうか。周囲が作り出した禁忌を越えたら、そこには自分の大切な世界を築けるかもしれない。そうして覚醒した力が、いつか世界を助けるかもしれない。
ちびうさは孤独を知っているから、行ってはいけない場所でひとり過ごす友人を訪ねた。悩み苦しむ心があるから出会えるものがある。
いささか前向きすぎる結論かもしれないが、物語のヒロインがくれるメッセージとはそういうものだろう。
心に小さなヒロインを宿し、私たちは安心してコンプレックスにまみれていよう。
美少女戦士セーラームーン新装版(6) (KCデラックス なかよし)
- 作者: 武内直子
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2004/01/23
- メディア: コミック
- 購入: 3人 クリック: 15回
- この商品を含むブログ (4件) を見る
注1)第4期デッドムーン編で出会う、ちびうさの”王子様”エリオス。地球の聖地エリュシオンの守護祭司で、初めは敵の呪いによりペガサスの姿となっている。地球の王子であるエンディミオン(タキシード仮面)を呪いから救い、彼のパワーの結晶”ゴールデンクリスタル”を解放したときにエリオスの呪いも解かれ、少年の姿を取り戻す。これは男性の解放によって新たな世代の女性にふさわしいパートナーが生まれることを示唆しており、非常に現代的な要素である。第4期のメインテーマは「子供から大人になるための夢の更新」だが、タキシード仮面を主軸に新時代のパートナーシップへの転換を描いたものでもあり、個人的にここが本作のハイライトだ。敵の妖術でセーラームーンとタキシード仮面が子供の姿に変えられ、セーラームーンが夢を見るシーンがある。夢の中のタキシード仮面はいつもと違ってひたすらセーラームーンに尽くし、甘やかす。それは甘い夢だけど本当のタキシード仮面じゃない、どちらかが相手にひたすら尽くすような関係を求める夢から男女ともに覚めよう、という大変象徴的な場面である。
注2)セーラープルートは時の扉を司る孤独な番人。扉のところへ立ち入ってはいけないとちびうさは母から言いつけられていた。土萌ほたるは立入禁止区域である研究所で暮らしている友人のいない少女。ほたるは父である土萌教授(既に敵に憑依されている)に肉体を改造されており、そのために敵に肉体を乗っ取られて一度死ぬ。これを、親の思想に従って生きることを強制された子供の苦悩と破滅、になぞらえると、ちびうさとの対比が生きる。2人はどちらも親由来の苦しみを抱えているが、親の力の及ばない自分の世界を手にしたか否かが明暗を分けた。
【関連記事】
セーラームーン2部作の前篇。
20世紀のタキシード仮面と21世紀の『男がつらいよ』
タキシード仮面はつらいよ
なぜ現代の男がつらいのか
こんまりさん、出番です
ときめく男はカッコいい
「恋愛工学はキモい」と「女の子はスッピンがいい」は似ている
私がツイッターを初めた頃に燃え上がっていた恋愛工学。この単語をまたもやTL上でちらほらと見かけるようになった。恋愛工学考案者・藤沢氏による小説「ぼくは愛を証明しようと思う。」が出版されたことによる。この小説をcakesというサイトで覗いてみた。
全体的な感想としては、「使えそうなテクニックの紹介をベースに、それらの実行へのハードルとなる抵抗感・罪悪感を取り除く呪文をところどころに添え、読者にイケてる自分をイメージさせる描写をちりばめた気の利いた教本」である。
一部で「キモい」「ゲスい」「こんなのは恋愛じゃない」と酷評される恋愛工学。
たしかに恋愛工学者とのエンカウント体験の中にはキモい以外にかける言葉が見当たらない案件(恋愛工学読者のアポを断った話 - アオヤギさんたら読まずに食べた)もあり、酷評が出るのもわかる。だがこれを求める人がいることもわかるし、酷評を聞いた工学者たちが「そんなこと言ったって、こうすれば女がついてくるし、こうしないとついてこないじゃないか」と反発するのもなんとなくわかる。
誰も傷つかなければそれがいいけど、いろんな人がいろんなことを感じ、語るのは止められない。同様に、恋愛工学を説得してやめさせる、というのは難しい。かなりの無力感がある。
そんなことを外野オブ外野の私(31歳子持ち既婚女、特別男女関係に精通するわけでも豊富な経験があるわけでもない普通の人)が考えた。
恋愛工学への第一印象
「性暴力を生みかねない点を除くと、あまり怒る気にもならない」というのが大まかな内容を知った数ヶ月前に抱いた感想。(「性暴力を生みかねないことこそが最大の問題だ」という指摘もわかるが、伝道師の藤沢氏も、デートレイプになるようなことは避けるべきと一応断りを入れている。)
なぜ怒る気になれないかといえば、恋愛工学のテクニックと女性誌などで紹介される「モテテク」「愛されテク」とがどことなく似ており、既視感が拭えないのだ。
たとえば、非モテコミットの回避は「浮気をさせないためには男を安心させすぎちゃダメ。『オレの他にも彼女を狙ってる男がいるかも…?』と思わせるくらいが〇」みたいなよくあるアドバイスに似ている。トモダチンコは谷間見せやボディタッチに似ている。
全体的に「なんかこういうの見たことあるな…」というのが正直な感想で、「なんじゃこりゃー‼︎」というフレッシュな怒りがほとばしることはなかった。
テクニックにより効率よくうまみを得たい、そういう態度を多少セコいなとは思うが、他人になんと言われようが欲しいものは誰にでもあるだろう。セコいのかスマートなのか、決めるのは彼ら、彼女ら自身だ。
恋愛工学という名称について
恋愛工学の目指すところはなるべく多くのレベル高い女子と肉体関係にこぎつけることなので、「恋愛工学というよりヤリ工学じゃないか」という非難がある。だが藤沢氏は一貫して恋愛という言葉を用いる。
恋愛=love、という感覚が批判を呼ぶのだろうが、ここでいう恋愛のニュアンスはおそらくaffairに近い。そういう意味合いで恋愛という単語を使うのもアリではないか。人格同士が向き合う思いやりにあふれたものだけを恋愛と呼ばなければならないわけではない。恋愛はときに熱病であったり、錯覚であったり、事故であったりする。いや、よく知らんけど。
ちなみに"工学"の方も納得感あり。これ、理想とかあるべき論はまるっと捨てていて、あくまで「実際これが女に有効だから」という視点のみから追求する現場主義なのだよね。だから恋愛理論ではなく、工学。
よって「名称が不適切」という揶揄も、そうでもないなという感想。
なぜ恋愛工学は有効なのか
表面的なことへの感想はここまでにして、そろそろ内容の話を。
既に各所で指摘されていることだが、恋愛工学のテクニックが効いてしまうのは
・「女をリードできる男」を求めてしまう恋愛観
・「セックスには愛が伴っているべき」というセックス観
・「女は男ほど性欲に引きずられて行動しない」という女性観
が多くの女性の内面に植えつけられた結果と言える。もちろん程度には個人差があるが、実際に工学者の成功体験があることはいくらかの実証となる。
特に、恋愛工学の忌み嫌われる点のひとつ「セックストリガー」(女性はセックスした男性のことを好きだと思い込んでしまうことを利用した肉体関係の継続。要は恋愛感情を装いセフレとしてキープする)。これは明らかに「セックスには愛が伴っているべき」という女性の価値観を逆手に取っている。セックスしたからには好意を向けるに値する男であってほしい、そしてこちらに愛を向けてほしいという執着を生んでしまう。
さらに、恋愛工学テクにより一時的に性欲を煽られてセックスに応じてしまったのだとしても、「女の自分が性欲のためだけに行動することなどあるだろうか、いや、どこか 感情を伴っていたはずだ、そういえばなんだかあの人のことが気になっている気がする…」という具合に術中にはまってしまう。
この性質の悪さに女性側は怒りを感じるが、怒ってもトリガーを無効化することはできない。
こうした経験がまるで無い立場から憶測で物を言ってみるが、トリガーが効かない女というのは「あのセックスは事故だった」と処理できる女であり、愛されないセックスをした自分のことを恥ずかしいともみじめだとも思わない女ではないか。
つまり、恋愛工学について肉体と愛情を切り離した振る舞いをする男が糾弾されているが、むしろ女こそ肉体と愛情(と己の尊厳)とを切り離す自由を獲得することで不本意な扱いを避けられるのではないだろうか。いや、何もフリーセックスに走れと言っているわけではなくて。
恋愛工学をやめさせることは可能か?
恋愛工学者を説得することは可能だろうか。
藤沢氏による二村ヒトシ氏との対談https://cakes.mu/posts/9927や、はあちゅう氏との対談
などを見る限り、それはなかなかハードな作業だ。
特にはあちゅう氏との対談に顕著なのが、現実論と理想論のすれ違いだ。
恋愛工学への嫌悪感や違和感は、多くの場合「感情の伴った一対一の関係を結ぶのが恋愛であり、その実現方法として恋愛工学はおかしい」というような筋で語られる。
それに対して「実際は女もそういう理想と違う行動をとるじゃん」「誰もがその理想を実現できるわけじゃない」という理想と現実の相違を持ち出されると、理想論は勢いをなくす。
本当は、理想論には理想論の存在価値があるのだが、議論をしてると「事実を言っている人間が正しいし客観的」という雰囲気に飲まれがちである。
そしてはあちゅう氏の語る女性の恋愛観も、
男性側に、気持ちの動きを読んでリードしてほしいとは思います。
であったり、
女性にも、みんなからモテている男性を獲得したい、という気持ちがあるのは否定できません。「あなたしか見えない」ではなくて、「たくさんいるけどあなたしか見えない」と言われたいんです。
であったりと、「だったらやっぱり恋愛工学が効くんじゃん」と思わざるを得ない部分がある。(はあちゅう氏の発言を批難するつもりはない。むしろ矛盾を隠さず浮かび上がらせているのがさすがだなと思う。)
リードする役割から男を解放できない女がいるのも事実である。
リードされる役割から外れようとする女をぶん殴る男がいるのも事実である。
男女の内面規範を利用した行為は世の中にいろいろな形で存在する。恋愛工学はそのひとつに過ぎない。
恋愛工学、そしてそれが象徴する男女の規範の非対称性に腹が立つのはもっともだし、怒りを封じ込めろというつもりはない。ただ、恋愛工学を滅しても非対称性は消えない。非対称性の解消を恋愛工学者に求めることはできない。
ちなみに、藤沢氏は何を言われても揺るがず持論を展開するので常に相手を論破しているように(特に工学者からしたら)見えそうだが、そういうわけでもないことを指摘しておく。
例えば
はあちゅう (略)この本を読むと、世の中の男性の中に「やったら終わり」という関係性を求めている人が、私が思っているよりも多いのでは……と怖くなってしまいます。
藤沢 たくさんの女性にモテる男、というかヤリチンのことを、女性は誤解しています。そういう男は女をとっかえひっかえしていると非難されるけど、誠実で一途で、結果的にモテない男だって、オナニーするときに、いろんなAV女優をとっかえひっかえ見てるでしょ? (中略)いろんな女性と交わりたいというのが、男性の本音というか、性欲で、全ての男性にそういう願望があることはまったく否定出来ない。やれるか、やれないか。あるいは、やるか、やらないかの違いはあったとしても。
という藤沢氏の主張は、「食い逃げは悪いというけど食い逃げをしない人にも食欲はあるよね、やるかやらないかの違いはあったとしても。」というようなものだ。「違いはあったとしても」じゃなくてその違いこそを問題視しているのだから、これは返答になっていないのではないか。はあちゅう氏(と多くの女性)は食欲を非難しているのではなく、食い逃げが怖いしずるいと言っているのだ。
小説本編にも同じことがいえるが、具体的なテクニックとその原理にはある程度説得力があるが、「多数の女を掛け持ちしてセックス獲得を目的にすること」の正当性を語りだすと急に論理展開があやしくなる傾向がある。無理な弁明をしなくても「やりたいからやる」でいい気もするが、おそらくロジックにより工学者の罪悪感を取り除いて教義に邁進させる必要があるのだろう。(あるいは、上記のような問いかけ、その裏にある女性の心情にあまり価値を見いだしておらず、整然と応える必要性はないと考えている、か。)
「女の子はスッピンがいいよね」と言われてもムカつかずにいられるか
ここで「恋愛工学なんか小手先で意味ないし女性を騙すなんて卑怯!そんなもの使わずに女性と向き合ってコミュニケーション能力を上げてよ」と言われた恋愛工学者の気持ちを想像しようと試みる。
それはきっと、女性が男性から「メイクした顔が素顔と違うのって詐欺じゃん。やっぱり女の子はスッピンか、やりすぎないナチュラルな感じがいいよね」と言われるようなものだ。「ショートカットの女の子っていいよね」でも「シンプルな白シャツとデニムが似合う女の子っていいよね」でもいい。
女性の皆さんはムカつかずにいられるだろうか。うるせー黙れ、と思わないか。薄っぺらいこと言いやがって、と思わないか。「そんなこと言うけどスッピンやショートカットや白シャツデニムの普通レベルの女を実際褒めたりしないだろ!そういうほぼ素の状態でもキレイな女が好きなだけだろ!」と思わないか。私は思う。
これを逆に置き換えると、藤沢氏が「女は上位3割の男しか見ていない」と言っているのがどういうことか、そのことに工学者たちがどんな感情を抱いているのかを想像することができる。
しかも彼らが欲しているのは肉体関係とハイスコアプレーヤーとしての称号なので、「見る目のない相手にムカついても放っておけばいい」が通用しない。男を丁寧に見つめない女の精神にムカついても、それがSランクやAランクの肉体に宿っていたなら捨て置くことができないのである。そのジレンマから解放されるために「女の内面に価値はない」というロジックを展開することになる。
「女は結局モテる男が好きなんだから、それを擬態して何が悪い」という工学者たちに「すべての女がそうじゃない、少なくとも私は違う」と言ってみたところで、彼らにとって大した足しにはならないであろうこと、いざ女の言う通りに擬態をやめたらさんざんに扱き下ろされかねないという疑念を持つであろうことまでも推察される。
そういうわけで、「恋愛工学はキモい」と「女の子はスッピンがいいよね」は似ている。言う方の心理は似ていない点もあるが、言われた方の心理は似ている。
これが私の無力感の理由である。
さらに付け加えれば、スマホゲームでガンガン課金している人に向かって「そんなつまらないものに資源を投入するのはやめろ」といったところでプレイ中の人間にとってはそのゲームが非常にエキサイティングであるか既に中毒症状が出ているかで、まったくもって言うだけ無駄な感じにもとても似ている。
ゆえに工学者にはめいめい気が済むまで学問を追究してもらう他ないのではと思っている。
恋愛工学が教えてくれること
幸せや成功を晒すことには意味がある
先週、テレビ放映された森三中大島さんの出産映像を観た。
兼業主婦と専業主婦のワークライフバランス
ワークライフバランスのイメージ
ワークライフバランスへの二つの違和感
個人の生活は自動的に維持されるものではなく、その運営には無賃金労働が必要になる。家事や育児の中には自分の生活をエンジョイするというライフ的な要素の他に、やらなくてはならない作業、考慮すべき事柄などがあり、これはワークである。
こうすると、仕事とプライベートを半々の面積で描いた上の図においてもワークがかなりライフを圧迫して見える。
長時間労働が根付いた実際の社会生活においては言わずもがなで、「ワークライフバランスっていうよりワークワークバランスだよ…」という嘆きも散見される。
そこでもうひとつ、仕事におけるライフの存在も可視化しておかなければならない。
なんだかがんばれそうな図になってきた。
このライフはたとえば、やりがいや自己肯定感、仕事の面白みや同僚とのつながりなどが当てはまる。(家庭内のライフも同様だ。)
「好きなことを仕事にする」というのは甘い考えであるかのように言われるが、ワークライフバランスの実現という点に絞れば非常に合理的なことがわかる。
もちろん、仕事は外貨獲得のためと割り切り、家事などを極力省力化して相対的にライフを増やす、というのもありだ。
どちらもそこそこにというのも当然あり、ハードな仕事に燃えるのもあり。
要はなんでもありだ、自分の人生はこの世にひとつなんだから。
このように、仕事にもプライベートにも(もちろんその他のあらゆる場面にも)ワークとライフが混在しており各自が自分に合わせたバランスを追求するという前提で議論がされてほしいのだが、実際はそのあたりを蔑ろにされて誰かが辛い思いをするケースが多い。
仕事と家庭の両立における認識のズレ
家庭に注げる時間が劇的に減っても、家庭のワークは劇的には減らない。
そのことが家庭のライフを圧迫する。具体的には、
・自分の時間や家族との時間が取れないことによる充足感の低下
・家事や育児の負担感の増大、うまくこなせないことによる自己肯定感の喪失
・ベランダの鉢植えをすべて枯らし、それを棄てる気力すらなく、窓の外を見て心がすさむ(以前の私)
などがおこる。
それでも仕事が充実していればなんとかなる、 好きでやってる仕事じゃないか。
そんな励ましはあらゆる人に果たして有効だろうか。
負の感情はしばしば連鎖する。
やりがいや自己肯定感という仕事のライフは、私生活がすさんでくるとつられてしぼみ始めることが多い。「こんなにボロボロになってまで、自分は何をしてるんだろう…?」と。
ライフは、たとえやっていることが同じでも心が元気じゃないと途端に輝きを失うのだ。そしてすべてを義務感だけでこなしているような感覚に陥ってしまう。こうなるとワークアンドワークである。きつい。
(ちなみに上図の”仕事”と”家庭・プライベート”を入れ替えると、時短でうまく仕事を回せない、マミートラックから抜けられない、といった悩みで毎日のやりがいが失われていく状態を表す図になる。)
働き方が硬直的な社会で、家庭内のワークを担う人の多くが悩んでいることは想像に難くない。けれど「時短や育休は周りにとって迷惑」「家庭を優先する人は仕事を甘くみている、仕事の第一線から降りている」といった見方をする人もいる。
そういうことを言う人は、悩める人が日々どんな生活をしていると思っているんだろうか。
おそらく、こんな生活だと思っている。
なんだ、いけるんじゃん?みたいな。
好きでやってるんでしょ?みたいな。
もっと本気出せよ?みたいな…。
家庭内のワークを無視するな。
どんなに好きでやっている仕事にも大変なことはある。
好きでやっている家庭だって同じだ。
好きでやっている仕事は直接の顧客の役に立ち、間接的に社会全体を豊かにする。
好きでやっている家庭だって同じだ。
家庭内のワークの無視・軽視はいろんな人を軽く扱うことにつながる。
専業主婦のワークライフバランス
まとめるとこういう感じだ。
ライフが引っ込み、紫色のワークなのかよくわからないタスク=押しつけのワークがねじ込まれようとしている。
このタスク、兼業主婦であればまだ「仕事もあるのに無茶言うな!」と跳ねのける明確な材料があるのだが、専業主婦の場合「専業なんだからここまでやらなきゃダメかも…」と受け入れてしまいがちだ。剥奪された自己肯定感というライフのスペースにすっぽりはまってしまうのだ。
(兼業でも、家庭に時間を割けていない罪悪感からトラップにかかるという別の危険はありそうだ。)
専業主婦が家庭でのワークを頑張ることは大事だ。
けれど何をどうやるかは本人の主体性を尊重してほしい。
主体性が欠けると、自分が何をやっているのか自分で表現できなくなる。
それは、専業主婦生活を自分のキャリアとして築くことの妨げになる。
図中のワークの左上を見てほしい。
これまでの図にあった"仕事"エリアとの境目が、点線からトラ模様のテープに変わっている。前述したように、家庭から仕事への参入障壁はやたらきびしいものとされているが、家庭生活を主体的に語れることがこの障壁を越える助けとなるように思えるのだ。
専業主婦生活を続けていく人にとっても、自分のワークライフバランスをとっていくことが生活の充実につながるはずだ。トラップに負けず、自分のキャリアを邁進していこう。
上記に挙げたトラップは、家庭内のワークを軽視するものだけでなく、家庭内のライフの軽視を含んでいる(つまるところ、家庭という領分の軽視なのだが。)
最後に、家庭内のライフの軽視が招く罠について書きたい。
ライフは先延ばしにできるのか
「現役の間、家事育児を任せきりにした妻に報いたいから老後は旅行を」って男の人多いのかもしれないけど、妻からしてみればそんだけほっとかれてた夫と今さら旅行するより女友達と旅行したほうがよっぽど楽しいよね…話しもはずまず旅行中も世話しなきゃいけない妻からすりゃ誰得だよっていう
— うちのうら (@muenchen1923) June 3, 2015
こういう現象は本人も家族も報われない。
家庭内のライフを軽視する傾向はいろんな犠牲者を生んでいるのではないか。
まとめ
女と女と男の戦い方
女対女はそろそろ終わり
最近、女同士の格付けや派閥争いなどのいわゆる「女の敵は女」的なものへの共鳴が少し弱まっている風潮を感じる。
女対男ももうやめたい
技はいろいろ、地球はひとつ
「育休世代」のジレンマ 女性活用はなぜ失敗するのか? (光文社新書)
- 作者: 中野円佳
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2014/09/17
- メディア: 新書
- この商品を含むブログ (14件) を見る