こりくつ手帖

なにかというとすぐに例え話をはじめる20th century girl

女と女と男の戦い方

女対女はそろそろ終わり

最近、女同士の格付けや派閥争いなどのいわゆる「女の敵は女」的なものへの共鳴が少し弱まっている風潮を感じる。

 
女同士で対立する構図がきれいさっぱりなくなっているわけでは勿論ないのだけれど、「どっちの女が優れているか」という応酬に終始せず「なぜ女同士が分断され対立させられるのか」「なぜ不毛さに気付きながらもお互い分かり合えないのか」「立場や環境が違う女同士で手を取り合えないのか」といった問題意識を含んだ議論が増えてきている。
 
これは現実の女性達が発する意見もそうだし、フィクションの世界にもそんな傾向がある。
 
例えばTVドラマでは「問題のあるレストラン」はいろんな状況に置かれた女性達の共闘を描いていたし、「マザーゲーム 彼女達の階級」はタイトルに反して階級争いのゲームよりも個々の家庭事情に悩み苦しむマザー達の姿に焦点が当てられている。
階級争いといえばマウンティングという言葉もドラマ「ファーストクラス」など女同士の争いに言及した作品から広まったが、既に性別関係なく行われる行為だと認識されており「女の敵は女」カルチャーの印象は薄れたように思う。
 
現実の世界でも女性達は無益な争いを減らしたいと思っている様子だ。
代表的な争いである「専業主婦vs兼業主婦」「既婚vs未婚」「子持ちvs子無し」においても、場の話題がそうした流れになると「選択には個人の事情も関わるしどちらが上とか無い」「むしろどうして対立させられなきゃならないのか」と沈静化させる意見を発する人は少なくない。
 
これはどう見ても良い風潮なのだけれど、その背景にあるものを思うと少しだけシリアスな気分になる。
 
端的に言うと、私達は女同士で争っている場合ではなくなったのだ。
その大きな理由は言うまでもなく生き方の多様化が進んでいることだ。
 
選べる道が増えたのはいいが、選べない道も増える。
選ばなかった道を行く人はまぶしくもあり、ときに辛そうでもある。
どの道が勝ちかなんてよくわからなくなってきた。
一本道なら、道を歩く女の中で一番を目指せば一番幸せになれる、そう思えたのだろうか。
 
結婚、仕事、出産、自分の時間、家族との時間、社会貢献、自己実現
何かを諦めるのも辛ければ、全てを手に入れるのもキツい。
そもそもこんなに多くのものを追いかけなきゃいけないなんて誰が決めたのか。
自分が持ちたいものだけ持とう、そう決めたそばから外野の野次が飛ぶ、「これを持たないなんて信じられない!」
 
ヤバい、私が辛いのはどう考えても隣の女のせいじゃない。
なぜなら彼女も私と同じ場所、あるいは別の場所に傷を抱えているのだから。
この世界の背後にもっと大きな敵がいる。
仕方ねえ…力を合わせてそいつを倒す‼︎
 
という具合に女性達は手を取りあおうとしているのではないだろうか。
さながら最大の敵魔人ブウを前に合体によるパワーアップを決意した悟空とベジータのように。
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女対男ももうやめたい

女の敵は女でないなら、本当は誰なのか。
それは男性である、という認識もまた過去のものになりつつある。
男性の多くも疲労と閉塞感に悩んでいるのは明らかだ。
これまでの男性社会が育んだ企業文化や仕事至上主義である、というのが今の気分にもっとも近いかも知れない。
これらが柔軟な生き方をすることを妨げているのは明白だ。
ではなぜ多くの人がおかしさを感じながら改善が困難なのか…敵の本質はこのあたりにありそうだ。
 
こう言うと男性には頷けない部分もあるかも知れない。
いやいや、依然として女の敵は男だと思われてるんじゃないか、と。
女性が不満を訴えるときは大抵男性への批難や要求がセットになってるから正直聞くのが辛いだろう。
既得権益に立ち向かうのもしんどいけど、既得権益を持ってるとされる立場でいるのもしんどかろう。
 
社会の改善は社会に関わる全員の問題なのに、女性がやたらと開拓者であれと言われるアンバランスは男女双方に不幸を呼んでいる。
 
例えば企業内では他の社員が長時間労働を続ける状態が改善されないまま、結婚や出産をした女性社員は「新しい女性の働き方を実現してほしい」と言われる。
そう言ってくれるだけマシという声もあろうが、言い換えれば「他の人は今まで通りの働き方だけどね」ということ。一人で他と違う動きをするのは実際やってみると障害が大きいし、男性や独身者には新しい働き方はないのかよということにもなる。
仕事上でも精神的にも、アンバランスが摩擦の元になる。
 
この状況に置かれた女性の心境を例えるなら、地球人よりも地球にフルコミットして戦い続けているサイヤ人のそれである。
サイヤ人(女性)が戦闘民族(既存の文化に対立する側)だからって戦え戦えって(産めとか育てろとか働けとか輝けとか)煽り過ぎだっつーの!それよりちょっとは地球人(男性)連れてこいよ、今地球(社会)の話してんだよ、『チャオズは置いてきた』じゃねーよ!」
 
一方男性はというと、戦いに同行してくれる戦士やたまに仙豆を届けてくれる人もいれば、「スーパーサイヤ人になれる(結婚、出産によるキャリアチェンジができる)強いやつが戦えばいいだろ…地球人にはそういうのねーから…てかサイヤ人いるから地球にヤバい敵がくるんじゃね?」と考える人もいる。
 
まずは全員落ち着こう。話はそれからだ。
サイヤ人がいなくても敵はもうずっと昔から地球に送り込まれていたのだ。
そして地球人はサイヤ人になれないし、サイヤ人の中でもスーパーサイヤ人になれる者となれない者がいるが、必要なのは彼ら彼女らも含めた全員の力だ。
魔人ブウ編を参考に結論を導くなら、みんなの元気を集めて元気玉を打てば勝てる。
つーかそれしかない。
 
何が言いたいかというと、目指すべきは女性が輝く社会というより男女全員が輝度を調整できる社会であって、それには性別や環境問わずみんなが新しい働き方を許されるようでないと前に進めないということだ。
 

技はいろいろ、地球はひとつ

生き方は本来多様であるべきだが、いざ自分が人と違う道を行くと不安が押し寄せる。
社会の変わらなさの原因は私達自身の変われなさが積み重なったものかもしれない。
そこは「自分はこういうふうになりたい」という気持ちを頼りにそれぞれが帆を進めるしかない。
 
人にはいろんな戦い方がある。
 
私は前出の画像を撮るために魔人ブウ編を読んでいて、最高にかっこいいヒーローに出会ってしまった。
それはミスターサタンだ。
彼は戦闘に加わるほど強くないわりにビッグマウスで浅はかで体裁を気にするという愛すべき道化である。
だが彼のすごいところは、弱いくせに戦いの場に最後まで居座り、戦局を見続けたことである。
そしてとうとうブウを倒す元気玉をつくるシーンでは思いがけない大活躍をするのだ。
彼がもし「スーパーサイヤ人ではない自分には何もできない」と傍観していたら地球は消滅していた。
大切なのは、どんな立場にあっても自分がやらねばと考えたことを勇気を持って実行することなのだ。
 
黙々とページをめくりミスターサタンの勇姿を見ているうちに私の頬を涙が伝った。
「マジでみんな頑張って地球を救おう…」
 
私は前の職場で妊娠中に体を壊したことをきっかけに、社内の長時間労働文化と自身の仕事への適性、家族との過ごし方などを考えた結果退職し、主婦をしている。
スーパーサイヤ人になる修行をしていたら体の限界がきて気絶してなぜかカリン塔に運ばれて呑気に仙豆を食っている状態である。
そんな戦闘力の低い私だが、不安に流されず、戦局から目を離さずに自分の次の一手を練っていきたい。
 
なお、スーパーサイヤ人の修行の厳しさについては次の書に詳しい。

 

 

 

「育休世代」のジレンマ 女性活用はなぜ失敗するのか? (光文社新書)

「育休世代」のジレンマ 女性活用はなぜ失敗するのか? (光文社新書)

 

 

 

 

 
そして地球人の苦悩、男性学についてはなかなか広がらないが、ついに『男がつらいよ 絶望の時代の希望の男性学』という本が登場した。こちらも近々レビューを書きたい。
 
 
ちなみにドラゴンボールの中で最強の地球人だと思うのはブルマだ。
彼女の作成したものを上回る精度のドラゴンレーダーは地上になく、彼女がいなければドラゴンボールは使えず誰も生き返れないのだから、ブルマは最強である。
でも戦いにはほとんど参加しない。
こういう戦い方もある。

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セーラームーンを読んで男性の戦いについて考えた。