こりくつ手帖

なにかというとすぐに例え話をはじめる20th century girl

シュークリームの記憶

連休中に旧友たちと連れ立って友人宅を訪れた。
友人の一人が手土産に持ってきた箱入りのシュークリームをみんなで食べていると、ふとある記憶が蘇った。

それは以前勤めていた会社での出来事である。
そこでは年に数回、部署ごとに労働組合の担当者と部員とが集まり職場環境について意見交換を行うという会議があった。
その年度の給与や休暇への要求と回答を確認した後、人員が足りないとか有給が取れないとかそういう感じのことを言い合う場である。
ある時、それを女性社員だけで行おうという試みがあり、私も参加した。
この会社は社員の女性比率が低いので、普段の会議では発言しづらい意見もあるだろうとの配慮から企画された会議だと事前に聞いた。

当日、女性社員達が会議室に集まり、部屋の中心にある長机を囲むようにして席についた。
すると労組の男性担当者は資料とともに箱に入ったシュークリームを長机の上に置き、にこやかにこう言った。
「今日は女性だけの会ということで、シュークリームでも食べながらリラックスしてお話していただければと思います」

シュークリーム?

少しの違和感が芽生えたが、私の口をついて出たのは「お気遣いありがとうございます」という言葉だった。
他の女性達も同様にお礼を言ったものの、率先してシュークリームを手に取る無邪気な者はいなかった。
資料を全員に回したところで年長の女性が「じゃあお菓子も分けましょうか」と言ってくれたので、箱を回してシュークリームをひとつずつ取っていった。
この時声を掛け合いながら回していったことで多少は空気が和らいだかも知れず、担当者の気遣いは全くの見当違いではなかったと思う。

しかし私はシュークリームの存在に若干の苛立ちを覚えていた。

まず、会議は昼休みを利用して開かれているので時間が限られている。
せっかくの機会なのでお菓子をわけわけする時間も惜しかったというのが苛立った理由のひとつだ。
しかしそれよりも引っかかったのは、女性の集まりだからお菓子が配られた、ということだった。
みんなでお菓子を食べてリラックスすれば討議が活発になる、という発想もなくはないが、それなら普段から男性達もシュークリームをむさぼりながら話し合えば良かろう。
なんというか、「女の人には甘いものを渡しておけばいいよね」という少し雑な感じが透けて見えたのである。
そしてそれが会議というオフィシャルな場に持ち込まれたことに抵抗感があったのだ。
これでは「女は仕事の話をするにも甘いもの食べながらでまるで緊張感がない」と仮に揶揄されたとして、まったく反論できないではないか。

我ながらとてもめんどくさいことを言っているなと思う。
こんなことを言うと、女ってのはいちいち文句をつけるから厄介だ、と反発を招くことも分かっているし、担当者の行動は女性社員を軽く見るつもりはなく単なる気遣いの結果であることも分かっている。
このエピソードで問題にしたいのは「悪気なくシュークリームを配った担当者」ではなく、「違和感を持ちながら 結局シュークリームを食べた私」のメンタリティーだ。

そう、黙って苛立つくらいならば「今この場にシュークリームは不要と考えるので私はいただきません」とでも言えばいいのである。
しかし私がシュークリームを拒絶するにはいくつかの関門がある。
まず、私は不要だと思っていても他の女性社員の中にはシュークリームを喜んでいる人がいるかも知れず、そこに水を差すのは無粋である。
そして、人が良かれと思ってしてくれたことを無下にするのは良心が痛み、こんなささいなことにいちいち異論を唱えるのは大人気ない行為に映るだろう。
さらに、私はシュークリームがとても好きなのだ。
断るのはもはや至難の技である。

男性同士が接待でキャバクラなど女性がサービスする場所を利用することがある。
それについて、彼女や妻の立場でそれを許せるかとか、サービスを受けることで女性を消費しているとかいったことはよく議論になるが、これらの問題を抜きにしても、どんなTPOにおいても男性はとりあえず女性をあてがえば喜ぶだろう、という思考が男性を馬鹿にしているような気がして私は肯定的になれなかった。
何故多くの男性が「男ってみんなこんなもんでしょ」と男性をなめたような文化に乗っかるのだろうと思っていたが、なんらかの違和感を覚えたとしてもそれを表明せずに場の空気に従う場合が往々にしてあるのだろうと感じた。
それはシュークリームを断れない気持ちと少し似ているのではないかと気づいたからだ。
(違いがあるとすれば、私がシュークリームを食べることで傷ついたり不快な気分になる人はおそらくいないということだ。)

この『◯◯に属する者には△△を与えておけばいい』という類の発想はいろんなところに潜んでいる。
そして◯◯の示す範囲が広いほど自分が拒否することが和を乱すのではないかと気が引け、△△に入るものがなまじ魅力的であるほど敢えて違和感を表明する気概が薄れ、結果として問題意識の共有に時間がかかってしまう傾向がある。
実際に違和感を表明したら「そんなことにいちいち文句をつける人間はめんどくさい」と案の定カウンターを食らったという例も枚挙に暇がない。(最近では「女性向け商品はとりあえずピンクにしとけばいいだろう」といういわゆるダサピンク問題の指摘とそれへの反発があった。)

そんなわけでこの手の問題意識は取り扱いが難しいのだが、静かに違和感を積層させている人間は少なくない。
そのため、大きなブレイクの可能性を孕んでもいるのだ。
アナと雪の女王』のヒットはその一例ではないだろうか。
この作品は「女児向けアニメはとりあえずお姫様が王子様とくっついて終わるものだろう」というお約束から逸脱した点に魅力があるということは方々で指摘されている。

△△の押し付けは不快だ、という指摘を、□□という方向もあるよ、という提示に置き換えることで問題意識はより幅広い層に抵抗感なく伝わる。
その□□を生み出すにも障壁はあるのだが、意見を言えずに悶々とすることに労力を割くくらいならブレイクを目指すメンタリティーを持ちたい。
シュークリームより、キャバクラより受けるもてなしとは果たして何なのか。

こうして些細な違和感を言語化することにより、シュークリームと何度も書いた私は無性にシュークリームを食べたくなり、シュークリームの力の強大さが明らかになった。
これを読んだ人がシュークリームを食べたくなったとしても、悪いのは私ではなくシュークリームである。